小説同盟(N-A)オンラインクリッ!
 翌日、スタンとケイツが事務所の応接間で、駒のないチェスボードをはさんで何やらうなりこんでいると、ダフネがアポロと一緒に勢いよくドアを開けて入ってきた。
「ひぎょっ!」集中していたのでパニックになるケイツ。
「あら、ケイツちゃんもいたの」彼女の声のトーンはいつもより低く、おまけに目が笑っていない。彼は思わず震え上がって意味もなく謝りかけた。
 それをよそに、彼女はじっとケイツの方へ向けて、数秒深刻な表情で見つめる。
「……」スタンが訝しがる。「なに」
「なんでもないわ」ダフネはため息をついて、「ケイツちゃんと遊んでる途中で悪いんだけど。――仕事よ」
「遊んでないよ。空チェスでこいつを鍛えてたんだ。それで、今日はどんなヤツ?」
「少しこっちの都合があってね。3年前から家の部屋に引きこもってる18歳の男の子、ってことしか説明できない」言いながら、おびえ気味のケイツの横に座って腕を組む。「初めてじゃないことだから、分かってくれるわね」
「そりゃね」スタンは頭をかきながら立ち上がると、「じゃ、先に部屋行ってるから、そいつ連れてきてくれる?」開きっぱなしになったドアを通り抜けようとした。ケイツもこういうスタンの行動パターンにはもう慣れたので、コーヒーを出しに来たばあやに「じゃオレも」と声をかけるとそれに付いていく。
 と、背後から、
「待ちなさい」とダフネの鋭い声。
「のぎゃっ!」ケイツがたまらず飛び跳ねる。「はっはいなんでしょうか!」
「ケイツちゃんじゃなくて、あんたよ」振り返ったスタンへ彼女は続けた。「もう期末テストの勉強は始めてるんでしょうね」
「ほっといてよ」斜め下を向くスタン。
「それは良いけど。……いい、これは仕事なんだからね。人を救う仕事よ」その声色と表情は、いつもの説教と明らかに違って厳しかった。どこか怒気を含んでいて、感情的なものだ。「気ぃ抜いてやったら、ただじゃすまさないからね」
「……」スタンは顔を上げるとしばらく彼女と見つめ合って、「はーい」返事するとさっさと上の階へ向かっていった。

*


「なんかダフネさん変じゃない?」昼寝屋の奥の部屋で患者が来るのを壁に寄っかかって待ちながら、隣でつま先を見て黙っているスタンに聞いた。「昇進でもかかってんのかな?」
「俺を信用したいのはやまやまだけど、信用しきれねえ」
「え?」
「そう言う顔をしてた、あの人」彼が呟く。「何かあったな。そして多分、今度の『患者』とやらは――」
 そこへ、アポロが『患者』を肩で担いでやって来た。担がれている青年は、若さ加減と無精ひげを生やしているところまではオゴと大して変わらなかったが、顔面蒼白で、うつろな目をしてへらへら笑っていた。白いジャージを上下に着て、やたらと体が細い。
「その患者は」彼を一瞥しながら、スタンが断言した。「『ふつうの』患者だろ? アポロさん。俺が治療が終わるまで見抜けないとでも思ってたの?」
「む」「え?」アポロとケイツが同時に声を出した。
「なんの犯罪も犯しちゃいないし関わってもいない。警察の職務範囲外の人間だ。少年犯罪だからって何も教えてくれなかったことは確かにあったけど、こんなやつを職務中によこすなんて、おばさんがすることじゃない。まるで俺を試すみたいだ」
「っ、この人は逮捕されて……」言葉とは裏腹に、図星だという顔をするアポロ。
「何があったんだ。――これはおばさんが、俺の仕事を疑ってるってことだろ?」
「そんな」ケイツが戸惑いの表情で、「どうして。ダフネさんはスタンを信用してるから、犯罪をした夢遊病の人をあっせんしてたんでしょ? なのに」
「……それは答えられない」口を固く結んで、アポロは青年をソファに導く。青年は一人で歩けるようで、薄笑いを浮かべながらふらふらと近づいて、倒れ込むようにぐしゃりと座った。「ただ、君がいつもどおりの仕事をして、この子が治療されたってことが証明できれば良いんだ。それだけ考えてほしい」
「話してくれなくたって」スタンの目がすっとアポロの両眼をとらえて、固定される。はっとしてとっさに視線をそらそうとするが、もう遅い。「答えくらい分かるさ」
「やめてくれ、スタン」その場に立ったままの彼の額から、だらだら汗が流れて落ちる。「これはロレル刑事からの指示なんだ」
「……」アポロの頭の中を見るようにぎらぎらしていたスタンの目が、急に宙を泳いだ。動揺したのが端から見ても分かる。そして、やっとアポロを解放してやると、深いため息をついて、弱々しく笑った。
「前に俺が治療した人殺しのおばさん、自殺したんだね」
「!!」ケイツは絶句する。「人殺しのおばさんって、あっ、あの、おれが初めてここに来たときの?」
「そうだ。――白昼夢遊病の発作が再発したみたいだな。よほど気が狂うような夢でも見たのかしらねえけど、警察病院の屋上から落っこちたらしい。慢性のこの病気が治って一週間かそこらでぶりかえすってのは、ありえない。だから、俺が手を抜いたって事しか考えられないってことさ」
「っで、でも、おれだって、ちゃんとクリスタルが元に戻ったところを見たよ。それに、あの人、スタンにお礼を――」
「それは僕も、ロレル刑事もよく分かってるよ」ひざまづきながらアポロは汗をぬぐった。「でも、事実として起こってしまった。もし君が原因なら、破壊師としてもっともあってはいけないことだ。君だけじゃない、僕やロレルさんも署で問題になってしまうよ。……だから、いつも通りにやって、この一件がただの悪い偶然だったって事を証明してくれ。頼む、このとおり」
「やめてよ、アポロさんが頭を下げる事じゃない」つかえているものを飲み込むようにぎゅっと目を閉じた後、スタンはカッと目を見開いて、気味悪くどこかを見て笑う青年を見下ろした。
「これは俺の問題だ」

*


 硬い材質のまっ白な床が見えないところまで続いていて、高さのつかめない曖昧な白い空とかなり遠くでくっついていた。ひたすら広い所で、その空中にスクリーンもなくさまざまな映像が長方形に投影されて、森の木々のように埋め尽くしている。
 メカニックの格好にピコピコハンマーを携えたケイツは、この夢の中にいるであろう青年自身の姿をきょろきょろ探しながら、わずかに殺気立っている黒ずくめのスタンを時々見た。全く迷いもなくある方向にずんずん行ってしまう。
「っね、ねえ」それに追いつきながら、話すきっかけを作る。「こっちにいるの?」
「写ってるものが違う」短くスタンが答える。「『都合の良い記憶』がこっちは多い」
 ケイツは映像を改めて見上げて比べてみた。半透明になった、十数秒でループする光景の数々は、例えば大人にしかられているものであったり、追いかけられている途中で激しく転倒したもの、サッカーでパスを繰り出すところなど色々あったが、二人の進んでいる方向は、母親らしき人物に褒められていたり、テストで良い点を取ったり、誕生日パーティだったりと、良い気分でいられるようなものばかりに偏っていた。
 時々、教育上よろしくない卑猥な映像も流れたりして、ケイツは思わず目を覆う。「すすすスタンさんエロイっす、見ちゃいらんないっすよ! きゃーなんだこれ£※◎§!」
「誰だって、見てるか妄想してるよこれくらい」歯牙にもかからない、といった風でスタンは素通りしていく。「おまえの頭の中にだって、なんだかんだ言ったってあるくせに」
「……」急に自分が恥ずかしくなるケイツ。「おっおまえなんか中学生じゃないやい!」
 記憶の投影は終わることなく続いていて、真正面からぶつかってもなんの抵抗もなくすり抜けることができた。やがて彼もののとおぼしきゴミで溢れた部屋や、そのドアをノックされて布団に潜り込むような引きこもりらしい映像と、妖精みたいな羽の生えた白い肌の美少女がマシンガンをぶっ放して殺戮していく変な空想が増えてきて、ケイツは背筋にぞくっとしたものを感じた。
 そして、少し薄暗くなった一帯が少しずつ見えてくる。その周りを沢山の映像が切り替わりながらくるくると動いており、中心で、キャスターの付いた肘置きのないチェアに座った青年が、背もたれに身を預けてぼんやりそれらを眺めていた。
 彼は、すぐ側まで歩いてきたスタンとケイツに気付き、くるりとイスを回転させて二人を見た。「――おまえらが、こうしてここに来ることは分かってたよ」
「そりゃ話が早い」スタンは口の端を曲げて腰からのびるやつを引き抜くと、二つに割った。「中程度の症状でまだちゃんと意識があるんだ、当然か。なら分かってるはずだよな?――あんたがいかに腑抜けかって事がよ」
「ああわかってるさ。で?」自信ありげに青年は言った。「オレはこれで満足してんだ。さっさとかえれ」
「あんたが部屋に引きこもんのは勝手さ。けど夢に引きこもんのは病気だ。俺はいかれやがったあんたの脳みそを治すのが仕事。布団の中でなんかにびびる日々に戻るんだな」
「いーやーだーね」子どもっぽい口調で青年は突っぱねた。「オレがおかしかろうがなんだろうが、オレがこれでいいっつってんだよ。このまま外のことがわかんなくなればもっといい。現実のこと考えなくて良いし。死ぬよりずっと楽さ。ほっといてくれ」
「ふーん……なら」のびるやつのスイッチを押して棒状にすると、二本とも青年へ向けた。「ちょっと痛い思いをしてもらうしかねえな」
「やってみろよ」挑発するように笑う青年。「ガキのくせにえらそうに言いやがって」
「起きねえヤツの方が」青年のチェアめがけて、のびるやつの片方を鞭にして思い切り横に薙ぐと、勢いに乗って飛んで、真上からもう片方を振り下ろした。「よっぽどガキだ!」あたりが衝撃でびりびりがたがたと震える中、スタンはきれいにしゃがんで着地する。
 が、
「い、いないよスタン!」ケイツはびっくりして言った。「消えてる!」
 すでにそこに彼の姿はなく、水蒸気のようなものが立ちこめるだけだ。
「わかってる」表情を変えずに言って、ゆっくり彼は振り返る。「ケイツ、後ろだ」
 ケイツもあわてて後ろを向くと、同じような舞台装置の中、同じイスに座って、青年がにやりとこっちを見ていた。
「はっ。すぐに手荒なことをする。やっぱりただの中坊だな」
 スタンは返事の代わりに再び鞭を猛スピードで振り、悲鳴を上げて伏せたケイツの頭のあった場所を突き抜けて確実に一撃が届く。しかし触れるか触れないかで彼は消え、今度は空高くから笑い声が聞こえた。彼は舌打ちしながら、それを見る代わりに斜め上に鞭をしならせ飛ばす。青年の姿はやはり消滅し、真横の至近距離に現れた。
「どうしたんだよー。思考が停止しちゃってるぞ? ん?」
 そこに剣を突き刺して、息つく間もなくスタンははね回るように四方八方に鞭を振り続けた。その先を読むように、鞭が激突する直前に青年の残像が浮かんでなくなる。もう殆どやみくもに鞭を床にたたきつけると、消えかけの青年の体をわずかにかすめて、再び彼はどこかへ行ってしまう。肩で息をしながら、スタンはあたりを睨み回した。
「もう終わりか? 俺ごときともまともにやれないなんて、まだまだ未熟だな、ふふ……」
「黙れ……」前方の空中に浮かぶ青年を無視し、荒い呼吸とともに、鋭い目線を巡らせた後、彼は轢かれたカエルみたいに伏せているメカニックもどきに声をかけた。「ケイツ」
「のえ」ぱっと顔を上げる。「や、やっと終わったか。……もうちょっと冷静にやってよ」
「別に焦ってないよ」ぴりぴりした調子で言って、「俺たち、どっちから来たか分かるか?」
「え?」言われるままに、きょろきょろ辺りを見回して、見たことのある投影を探す。そして「えーと、あ」
 ケイツが指をさしかけた方向と真逆に、彼が発声し始めた瞬間にスタンは渾身の力で鞭を振った。猛烈な勢いと速さで、突風が吹いたような音を響かせ一気に映像の森の果てまで向かう。そしてバチバチとスパークがわずかに聞こえた後、青年のすがたがノイズとともに途切れた。
「っち……ってあれ? あの人は?」首だけその方を向き目を点にするケイツ。
「ホログラムだったとはね」スタンは鼻で笑って、鞭の柄をぐいっと手前へ引き寄せた。
「っほ、ほろぐらむ?」
「立体の映像さ。今まで叩いてたやつもみんなその辺の平面の記憶と似たようなもんだったってこと。のびるやつがかすっても傷一つ付かないのでピンと来た」
 そして、鞭が伸ばされた方角、『都合の良い記憶』がずっと続く方から、青く光る鞭に縛り上げられた青年が、苦悶の表情で二人の元へ猛スピードで飛んできた。目の前にその体を叩きつけると、スタンはためらいもなくその胴を踏んだ。
「そう、本体は『都合の良い記憶』の道のもっと奥でに隠れてただけのこと」そして、夢に潜入する前にそうしたように、青年を冷たく見下ろした。
「――さあ、クリスタルの在処を今すぐ吐いてもらおうか」
 一瞬恐怖のようなもので凍った青年の表情が、ぎこちなく歪んだ。
「嫌だ」
 黙ってそこに視線を突き刺すスタンに、彼はへへっ、と小さく笑い声を漏らす。絶えられないくらいの沈黙が続いて、スタンがついにもう一方ののびるやつを振り上げた。
 カチャッ、とからくりが動く音。
 スタンの目の色が変わる。はっとして後ろへ体を向けたケイツの服を掴んで彼ごとさらう。
 無数の炸裂音。
 彼は青年を縛っている鞭を放り投げ、目前をかすめ、その影をえぐるように叩きつける弾丸をかわしてケイツをかばいながら床をスライディングした。すぐに立ち上がると、十メートル近く遠くに離れた青年と、その前に立つ、羽の生えた白い少女を睨む。
 彼女がショルダーベルトで下げたマシンガンから、ゆらゆら煙があがっている。
「さっきの動画の……!」ケイツは息をのむ。「な、なんなんだよこいつ!?」
「ゲームか何かのキャラクタか――くっ」
 再び発砲音。少女が無表情で体を震わせながら、その兵器を暴れさせる。再びスタンはケイツを掴んで、残ったのびるやつで地を叩くと一気に飛び上がった。
『私は全てを破壊するためにおくられた』少女が静かに呟く。『そうすることで秩序領域《ユニバース》は生まれる』
「キャラを思い通りに動かすのは楽しいだろう!」スタンが空中で言い放つ。「てめえの低レベルな妄想で汚れたキャラをな!」
「そうさ、俺は低レベルさ!」青年はからみついた鞭から抜け出すと、焦りと勝利宣言の混じった顔で言い返した。「だからここにいるんだ。だからここから引き戻されて、――たまるかああ!」
 そして、二人に背を向けると、ものすごい勢いで走り出した。落下しながらスタンが彼へ向けてのびるやつを振るうが避けられ、すぐさま少女のマシンガンから銃撃がはじまる。彼はケイツを放り投げて、彼女の銃口が一瞬戸惑ったところですかさず吹き飛ばすように鞭を喰らわせた。
 さかさまに落っこちるケイツと木っ端みじんになる少女を横目に、青年を真正面に見据えてスタンが叫ぶ。
「追え! ケイツ!」
「お、わわっ追えってあーた、――ぎゅびょっ!」そのまま着地して変な声を出すケイツ。頭と首を押さえながら半泣きで、「ったって、すっげえ早いのにどうすんのさ!」
「すっげえ早くはしりゃいーんだよ!」スタンは置き去りだった鞭を拾うと、じれったそうに「イメージするんだっ。早く付いてこい!」そして、映像の森の向こうに走り去る青年を追い、それごとなぎ倒すように空から左右の鞭を叩きつけながら飛んでいく。
「早く、早くって――」文句を言いかけて、ケイツはふと我に返った。
(冷静って言えば冷静だけど……、なんかやっぱり焦ってるよ、スタン)やっぱりアポロの話がこたえてるんだろうか、と思う。(せっかくここにいるんだから、おれだってしっかりしないと!)
 そして、何はともあれ駆けだした。しかし二人との差はどんどん開いていくばかりで、走っても走っても無駄な感じがする。うなり声を上げながら全速力で駆け抜けても、意味もなく息が切れるばかりだ。顔を真っ赤にして、ケイツはたまらず立ち止まる。
(ん? 待てよ?)肩を上げ下げしながら顔を上げて、(別にリアルなイメージじゃなくてもいいじゃん)額の汗をぬぐって、きっと前を向いた。
「よし」

*


 スタンのたたみかけるような光る鞭の爆撃をかいくぐりながら、必死の形相で青年は投影された動画を次々突き破っていく。
「いつまでもそうやって逃げてる気か?」奥行きのない白い空中でスタンが叫ぶ。「やりたきゃそうすればいいさ! 俺はどこまでも追いかける」
「俺は、まだ帰りたくない」自分に言い聞かせるように、疾走しながら青年は呟いた。「……帰らない、帰らない、帰らない、ずっとここにいるんだっ」
「逃げろ」スタンは笑いながら、もがくように先を行く青年の後ろ姿を、わざと外すように鞭を振る。「逃げろ!」もう一振りする。白い床が吹き上がるように飛んで大きな穴が空く。
「ひいいっ」思わず青年は耳ごと頭を抱える。それでも窒息したような顔で、目に涙をためながらひたすら走り続ける。車のような速さで彼は遠くへ、もっと遠くへ向かう。無数の映像へ認識できないくらいの間隔で飛び込んで抜け出す。
 似たような柄の動画が遠くで塊のようにして待ち受けている。それはぐんぐんと近づいてきて、全てに制服が映っていることがわかってくる。制服がたくさんいる。どんどん近づいてくる。そして、

 制服の集団。消音加工の穴が空いた部屋。壁いちめんの窓。
 グランドピアノ。茶髪。ピアス。タバコ。射し込む光。
 ころんとした体格の青年がそれを弾いていると、
 彼らがドアから入ってきて顔がこわばり、
 取り囲まれ鍵盤が乱暴に不協和音を叫び不良な男子達にちょっとすれた女子が混ざった奴らが笑って羽交い締めにして制服を引きちぎるようにはぎ取り笑ってそのまま下着を引きちぎって笑って肌に煙るタバコを押しつけて青年が泣き叫んで、そして、
 彼らが去った後に、青年が残された。上靴以外真っ裸の体にスズランテープがフランス国旗のように縞模様に食い込んで彼を縛り上げていてしゃくりあげている彼の少しふくよかな腹に「ピアノデブ」と太くて赤い油性ペンで書かれていてその体が鍵盤を押しつぶすように置かれていた。
(やつらみんないなくなればいい、この学校みんななくなればいい、みんなみんなこの瞬間とまってきえてしまえばいい)
 青年の真っ赤に腫れた目が、潤んで血走りながら狂気をはらんだ。
(でも、俺になんかそんなことできやしない)

 青年はその映像の嵐をただただ首を振りながら、かたくなに目を閉じて通過した。
「いやだ、いやだ、いやだ、もうもどれない、もうもどれないいいい!」
「逃げろ逃げろ逃げろもっと逃げろ!」スタンは笑った顔で、悪魔のような眼を青年へ突き刺す。「そうだ、おまえに名誉挽回なんかできやしねえよ! 見てくれをどんなに直したって、おまえはその時のピアノデブのまんまさ。何度でも言ってやるぜ。ピアノデブ。この、ピアノデブがあっ!」
「そうさ! 俺は今だってピアノデブさああああ!」声がかすれるほど叫びながら、時々おびえたように振り返りながら、一心に走る。「だから逃げてるんだ。俺は逃げる。ずっとずっとずっと逃げる!」
「ああ、逃げるピアノデブ。逃げてることを認めて逃げるピアノデブ。それを認めてまた逃げるピアノデブ。そうやって逃げるがいいさ。壊れてピアノデブですらなくなるまで、どこまでも逃げやがれ! 俺が追いかけてやる」
 床から跳ねた鞭の先が、青年の右肩に衝突してスパークする。割れるような悲鳴を上げながらそれでも青年は止まらない。その腕が、麻痺したのか力なくぶら下がって揺れる。スタンはまるで肉食獣のようにぎらついた目線で青年をとらえて放さない。
「追いかけて――『殺して』やる」そう呟き笑んだ彼の遙か後方から、
「ダメだあああああ」
 ケイツの声と足音が急にボリュームアップする。スタンが振り返ると、ピコピコハンマーを手にした死にものぐるいの彼が歩幅と合わない猛スピードで迫ってきていた。
「止まって、止まるんだよ! 逃げちゃだめだよっ! そんなんじゃ何の解決にもならないんだ!」言いながら、彼の横を一気に追い抜いていく。「あああああああああ」
「……」それを見つめるスタン。「ピジョニィ、か」
「ほら! 逃げたからどうなるんだよ! 逃げたらまともになれんのかよ!」とうとうケイツは青年に追いついた。見向きもしない彼に声を張り上げる。「逃げてどこ行くんだ! 何にもなんないでしょ、それはわかってるんでしょ!? じゃあ止めればいいじゃん! 止めてみたらいいじゃん! どうしてできないんだよ! ほら……だから、止まって!」
 すると、彼がすっとケイツの方を向いた。こわばった泣き笑い顔をして、震える声でこう言った。
「……優等生なことぬかしてんじゃねえよ。――ガキ」
 それを聞いて、後方のスタンがふっと笑い、ケイツから表情が消えた。
「止まれって」一瞬彼はうつむいて、その手に持つピコピコハンマーを固く握りしめた。
 そして一気に青年の前へ先回りすると、怒りを全身であらわにして、つっこんでくる彼へ向け振りかぶって、
「――止まりやがれこの引きこもりがああああああッ!」
 瞬速でスイングした。ピコピコハンマーの可愛い音と残像を残して、首を変な方向に曲げた青年が消える。
 そしてその姿をかき消すように、白色の閃光が全てを包んだ。


【クリッ! 2nd.Cr!【後編】まだ続く……】