クリッ! (Cr!)連載第一回〜第四回 Written by Ogoys(オゴワイエス) 目次 1st.Cr! 白昼夢破壊師(Daydream Crusher Enters!)[前・後編] 2nd.Cr! 逃がす者止める者蝕むもの(Pigeony and Hawky)[前編・後編(途中まで)] クリッ!  彼は目を開いた。  そこは、とある資産家の家の、まだ幼い娘の部屋だった。壁や天井に気品あふれる装飾が施され、小さめのシャンデリアが暖かな光を広げている。濃厚で、それでいて落ち着く古物の香りで満たされていた。  天蓋の付いた乳白色のベッドの、ピンクで染められた布団の上に、飾りの少ないドレスを着た少女がこしかけていた。かっと目を見開き、真向かいに置かれた小さなソファに座る彼を突き刺す様に見ている。彼はそれに視線を合わせるわけでもなく、ふーっ、と小さくため息をついた。  そのソファの後ろで不安げに、少女と彼を交互に見ていた資産家とその妻が、ようやく意を決して彼に聞く。 「す、スタナーさん……?」「メリルは……娘は……?」 「んー」スタナー、と呼ばれ、彼はうなずいた後、二人の方へ振り向いた。「もう大丈夫だと思うけど?」  彼がそう言った瞬間、目の前の少女が急に顔をこわばらせ、くしゃくしゃにしたかと思うと、大粒の涙をぼろぼろこぼして、 「……おっ、お、おとーさまぁぁぁーおかぁぁぁさまーあーん!!」  と泣き叫びながら立ち上がると、彼の脇を通り過ぎて資産家夫婦に抱きついた。 「メリル! メリル! 元に戻ったんだな!」「メリルちゃん……ほんとに良かった……」 「おとぉおさまあああおかあぁさ」  泣きながら抱き合う3人をよそに、彼は、自分のデジタル腕時計を見て二人に聞こえない様につぶやいた。「――5分かよ。ありがたみねえな」それから、ソファの脇に置いておいたデニムのジャンパーと黒いリュックサックを黙々と身につけはじめた。 「あっ、スタナーさん!」  帰ろうとドアの方へ歩く彼に気づいた資産家が、あわてて涙をふきながら彼のもとへ走った。「ありがとうございました! 本当に、他の『破壊師《クラッシャー》』じゃ直してくれなくて、どうしたらいいかと思って……。どんなお礼をしても感謝しきれません! ありがとう!」言って、何度も何度も礼をする。 「礼なんか別にいいです」ドアの前で、謙遜すると言うより突き放す感じで彼は言った。 「あの子の夢、木っ端微塵にしただけだし」 【1st.Cr! 白昼夢破壊師】 前編  普段と違う市内バス線の、あまり見慣れない景色が流れていくバスの中で、少年は何度も体を手探りした。中学校の指定ジャージから家で着替えてきた青いチェックのポロシャツがだらしなくなっていないか確かめて、ベージュの綿パンのがまぐちが開いていないか確認して、ティッシュとハンカチがポケットに入ってるかまさぐって、それから、ちょっとうわずった声で、 「カシミヤ8丁目カシミヤ8丁目カシミヤ8丁目」  と繰り返した。前の席に座った中年の女性が怪訝そうな顔で振り向いてきたので、少年はびっくりして車窓の方を向いて、景色を見ているふりをした。  自分でもかなり挙動不審なのは分かっているのだが、きちんとしなきゃいけない。間違った事があってはいけない、と、自分がこれからする行動について頭の中でイメージトレーニングをする。  人生の分岐点。ターニングポイント。夢への第一歩。いろいろな単語が少年の頭の中をかすめる。厳しい事があるだろうなあ、泣く事あるだろうなあ、と勝手に困難をでっち上げたりする。その上結論としては、ドラマチックに夢を実現して、 (りっぱな、白昼夢破壊師《デイドリーム・クラッシャー》になるんだ)  ちょっとなんとかの皮算用でニヤニヤしている少年を、通路を挟んで斜め前の席の老人が何故か幸せそうな微笑みで見つめていた。 【次は、カシミヤ8丁目、ナフサ心療内科前でございます。お降りの方はお知らせください。……痔、歯痛、虫さされに、パンナコッ】 「カシミヤ8丁目えっ!」  少年は思わず叫んで立ち上がり、思いっきり車窓のふちの「おろしてください」ボタンをたたいた。間抜けなチャイムが鳴って、ボタンが点灯する。驚いた乗客の何人かが一気に振り向いて、少年に視線の集中砲火を浴びせた。彼ははっ、というかぎくっ、として、それから恥ずかしそうにうつむいておとなしく座り込んだ。  バスが、少しずつ近づいてくるバス停に向けて減速していく。       *  5月の空は、春の様な淡さも夏の様な厚かましさもない、どちらかというと印象の薄いものだが、なかなか爽やかでもある。少しくたびれた様子の静かな住宅街の間にまっすぐしかれた広めの道路を、黄色いバスがのんびりと走ってくる。そして「カシミヤ8丁目」と書かれたバス停の標識の前で停車した。  ケイツは、バスを赤面気味に降りると、ショルダーバッグの中から折りたたまれた紙を取りだして、カサカサと開いた。プリンタで印刷された様な十数行の文章が並んでいる。彼は、視線をそれと周りの景色とにせわしく行き来させながら、バス通りの脇の狭い路地へ入っていった。  そこには、 『俺のいとこが半年前くらいに“スタナー”にみてもらったことがあるらしい。もちろん二代目ね。その話を聞こうとすると全然しゃべんないんだ。よっぽど嫌な目にあったんだろうな。ただ、なんでもユアミサワのカシミヤあたりに事務所があるってさ』 『カシミヤって、ほとんど住宅街じゃん。商店街のところ?』 『知らん。ビルの中だって言ってた』 『ビル? でかいの? 国道沿い? バス通り?』 『だから知らないって(^_^; 少なくとも住宅街のど真ん中じゃないわな』  という、会話の様なものと、 『4月15日(チ)☆STUNNER体験記☆ 私は一週間前に“スタナー”に治療されました。お陰様で立ち直る事ができ、こうやってレポートなんかをアップできるのですが、スタナーには大変感謝しています。  長々と書きましたが、本当になんというか、【活を入れてもらった】という感じがします。感謝してもしきれません。スタナーに敬意を表して、彼の望み通り事務所の場所はお話ししない事にします。でももし、白昼夢で困っていて“STANNER”と書かれた木の表札がかかったドアを見かけたら・・・・・・迷わず入ること!』 『2.26/Wedn. おとついに。ともだちにスタナーを紹介してもらった。びびった(いろんな意味で)。かなり。おまえに言われたくないよ。ってコトも言われたんだけど。。終わったあとはなんか。すごくすーっとした気分になった。それからいまのところ。まだ一回も意識がとぎれてない。すげーなー。STANNER。どうやら。本物だったみたい』  などと、日記の一部の様なものが書かれていた。  白昼夢遊病、と呼ばれる、近年になって急増している精神の病がある。これを、患者の精神に入り込む、という一風変わった手法で治療する「白昼夢破壊師」と呼ばれる人々がいるのだ。その中でも、「スタナー」という異名を持つ人物は、その鮮やかな治療の手際から、伝説的な存在の一人となっているのであった。2年前にその伝説となった先代が事故で亡くなり、今は二代目が引き継いでいるという話であったが、先代の死後は表舞台から「スタナー」の名はすっかり消えていた。 「――そう、あれに間違いないよなあ。古本屋の下の……ここを曲がって」  ケイツは一度、このバス停で降りて、白昼夢破壊師が主人公の漫画の、どこにも売っていない巻を探しに雑居ビルの小さな古本屋に来た事があった。道も覚えている。それに、その覚えている道を昨日寝る前に何度も何度も確認した。 「まっすぐ十字路を二つ無視する」  声に出しながら、やけに張り切ってぐんぐん薄暗い住宅街の奥へと進んでいく。すると、Tの字の交差点が見え、やけに交通量の多い、少し広めの道に出くわした。左右どっちに行っても国道に合流する、いわゆる「バイパス」だ。道に沿って、駐車場の広い新しめの商店が、古くて縦に長い豆腐みたいな形の古い商店たちに混じって建っている。 「右に曲がって、すこし行ったところ」  自分で言ったとおりに曲がったとたんに、緊張でドキドキしてきたのがケイツには分かった。わくわくしてきて変にひきつった笑顔になってくる。もう少しで、 (もう少しで、二代目『スタナー』に会える)  やがて、何の変哲もない四階建ての細長くて色あせた雑居ビルの前に、彼は立った。ビルの狭い入り口の脇に、電灯の入っている「ユーズドブック オゴ→3F」という小さな看板が置かれている。  一度深呼吸して、ケイツは勢いよく中に飛び込んだ。じめじめした狭いホールの右手に古本屋の事しか書かれていない各階の案内とエレベータ、正面には「空室」と張り紙のされた地味なすりガラス付きのドア、左手に急な階段がある。前来たときと同じように、階段をつかって上っていく。体が勝手に震えてきて、ケイツはもう一度深呼吸しようとしたが、かえってひどくなった。小学校の五年生の時に、演劇で準主役の宇宙人の役で本番にのぞんだ瞬間くらい緊張している気がした。 (いや、違うかもしれない。誰もいないか、偽物かもしれない。緊張しすぎだぞケイツ落ち着けケイツ負けるなケイツ)  だが、彼の心の半分以上は確信で埋まっていた。 (ただ、確かめるだけなんだ)  だが、彼の心の半分以上の確信の先は、 (会って、そして頭を下げて、頭を下げるのは五〇度くらいで)  いなかったり、偽物だったらどうするか、ということは欠落していた。  そして、彼は二階のホールへたどり着いた。そしてすぐさまホールの向こうへ続くドアを見る。  ちょうどドアのすりガラスのところに、横長の木製表札が、「STANNER」と書かれた小さな表札がかけられていた。 (やっぱり……!!)  この奥に、間違いなく「スタナー」がいる。ケイツの確信が決定事項になる。  緊張のしすぎでロボットみたいな動きをしながらドアの前に立つ。彼の頭の中に意味の分からないものがぐちゃぐちゃと写る。耳鳴りまでする。  覚悟を決めて、ケイツはドアをノックした。頭の中ではそれが、天高くジャンプした自分が巨大な剣をモンスターへ振り下ろす動作のようだった。  はい、と奥から女性の返事。  ケイツは頭の中が真っ白になって、そして、思いっきりドアを開けた。 「あのっすいません失礼しますぼくケイツって言うんですはじめまして実はここに二代目のスタナーさんがいるってききましてぜひお会いしたいと思ってご訪問申し上げ差し上げていただきました次第でございます! この通りです! 早速ではございまして大変恐縮ですがぼくスタナーさんみたいな白昼夢破壊師になりたいんです。心から一生のお願いなので何でもしますから弟子入りさせてくださいっ!!」 「あら」九〇度で敬礼するケイツの頭上のあたりで、年配の女性が声をかけた。「お友達?」が、ケイツの耳には全く入らず、大声で続けた。 「突然このような事をほざき申し上げて大変申し訳ございない失礼ですが、どうか弟子入りさせてください! よろしくお願いします!!」 「あ。――おい、ケイツか?」  どこかで聞いた様な声が下げたままの頭の先でしたのに気づいて、呼ばれたケイツはおそるおそる顔を上げた。 「ケイツじゃん。なんでここにいんだよ」  その先には、応接用らしきねずみ色のソファに腰掛けてこっちを驚いた様に見つめる、短い金髪の少年の顔があった。  つい一時間前、中学校のクラスの帰りの会まで見ていた顔だった。       * 「っはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」  金髪の少年は大笑いして、涙目になりながらソファーに倒れ込んだ。「弟子! 古典芸能かよ! ひっ、ひひひひひひいっ、笑いすぎて死ぬ!」ソファーの端をバンバン叩く。 「うるさいうるさい! しゃべんなよもう! 思い出したくない!」向かいのソファに座ったケイツは、顔を真っ赤にして少年をにらむ。「もう、三分前を忘れたい……」  中は狭く、ソファとテーブルの応接セットと、黒いパソコンの置かれたシステムデスクがある上に、さらにあちこちに観葉植物が置かれて、右の壁の窓からブラインド越しに差し込む黄色がかってきた西日を受けている。事務所自体はビルの幅の半分くらいで、奥行きももっとあるのを、ドアより左側からL字のかっこうで仕切って別の部屋にしているようだった。  奥のドアから、先ほどの返事をしたエプロン姿の老婦が、お盆にジュースとクッキーをのせてやってきた。 「お菓子でも召し上がって、落ち着いてくださいねえ」 「あ、ありがとうございます」  老婦はにこっと微笑んで、デスクの上に置いてあった小型のじょうろを手に取ると、鼻歌を歌いながら観葉植物に水をやり始めた。  オレンジジュースを一気に飲み干して、ケイツは大きくため息をついた。「絶対ここに、『スタナー』の跡を継いだ人がいると思ったのに」 「そう。それさあ」金髪の少年が言う。「なんで、ここに『スタナー』がいるって?」 「調べたんだよ、ネットで。先週、母さんに頼みに頼み込んで、やっとパソコン買ってもらってさ。何日もパソコンとにらめっこして、『スタナー』の情報を探してみたんだ」  言って、ケイツはショルダーバッグから例の紙を取りだし、少年に手渡した。少年は興味深そうにそれを眺めている。 「そこにあるのは大体、ネットの情報の中で一番多い意見っていうか、代表みたいなもののいくつかをコピーして貼り付けて印刷した奴なんだ。確かそうな情報の一つは、『スタナー』の事務所が、少なくともユアミサワ、この街にあるって事。もう一つは、『スタナー』のつづり」 「つづり?」 「うん。それの真ん中あたりの文章、日記だったかな、最初は“STUNNER”ってきちんとしたスタナーのつづりなのに、最後のは“STANNER”。間違ってるでしょ。次の奴も“STANNER”。スタナーで検索すると、かなりのページで同じく間違えたつづりがでてくるんだ。もしかしたら、これって意味があるんじゃないかと思って。で、昨日思い出したんだよ。こんなつづりの表札、ここで見たって」 「ほーう……」うなる少年。「『名探偵コ○ン』とか好きだろ、おまえ」 「毎週見てる!」思わず喜々として言ってから、ある事を思い出してケイツはふっと真顔に戻った。「ってそれはいいんだけどさ、何でおまえがここにいるの」 「何で、って」少年はそこでふっと笑うと、言葉を一度濁した。「だからさ」 「だから? 何?」腑に落ちない表情で再び聞くケイツ。 「だから――ねえ」金髪の少年は、口をへの字に曲げて厳しい表情で黙り込む。 「だから?」彼の言いたい事が分からず、身を乗り出してしつこく聞くケイツ。 「だから」もう一度言って、少年は大きく息を吐くと、何気なく、「俺がスタナー」 「え、誰?」 「俺」 「が?」 「スタナー、なんだよ」 「……へ?」ケイツは思わず、目を点にしてまぬけた声を出した。意味がよく分からない。「スタナー……?」 「そう」 「……誰が?」 「だぁかぁらぁ!」しびれを切らして少年もケイツの方へ身を乗り出して叫んだ。「俺が! スタナーなの! 飲み込み遅いよおまえは!」  老婦が二人の方を向いて、おやおや、と苦笑する。 「……え?」  ケイツの中で、ピーンと内容が一つにつながった。 「え、えええええええええええぇーっっ?!」夢中で立ち上がって、相変わらずへの字の少年へ驚愕の目を向けるケイツ。「おまえが? スタナー?! うそつけ! でも、スタナー?! 本当にスタナー?!」 「だから、くどいっつうの」呆れた様に少年も立ち上がって、言った。 「――俺が、スタン・ハイドレートが、二代目の『電撃者《スタナー》』なんだって」       *  先ほどの老婦が、唖然とした様子のケイツの方へ、ジュースの入ったペットボトルを持ってやってくると、 「おかわりでもお飲みになって、落ち着いてくださいねぇ」 「あ、え、お、おかわりなんて、いいです気にしないでください」 「まあまあ」  ケイツの遠慮を聞いていたのかいないのか、グレープジュースを空になっていたコップへ注いで、奥の部屋へ引っ込んでいった。ケイツはソファに腰を下ろしたスタンを一度見てから自分も座って、ジュースをまた一気に飲み干し、大げさに息を吐いた。 「ウソだと思ってんのか?」スタンが聞く。 「そりゃ、そうだよ。だって、そんな事今まで一度もおまえ言ってなかったじゃん。小学校の時におれ、こっちに転校してきたけど、全然おまえが、そんなようなようだったって、おまえからも、他のやつからも聞いたことないし」 「そうだな。俺は今まで、誰にも言った事はない」スタンはソファを離れると、システムデスクの後ろの壁、やたらに大きく見境なしに育ったアロエの鉢の真上で、小さい額縁に納められて飾られた写真を外して持ってきた。テーブル越しにケイツに見せる。 「……俺と、親父と、おふくろだ」  それをまじまじと見つめていたケイツの顔が、がらっと変わった。 「……スタナーだ……! これ、亡くなった最初のスタナーさん!」 「そうだ」  写真には、スタンらしきまだ幼い少年と、彼の両肩に手を置き背後で微笑む女性、さらにその横に、ケイツに指さされた優しそうな顔の男性が立っている。この事務所があるビルをバックにしていた。 「じゃあ、前のスタナーは、おまえのおじさんってことか」 「ああ」スタンがうなずく。「親父も自分の本名や、事務所の場所は伏せていたけれど、白昼夢遊病をもっと世に広めたいとか言って、テレビや雑誌にはよく出てた。こういう仕事があるんだ、ってことも伝えたいって。だから、おまえみたいな弟子入り志願の奴、結構事務所の場所をかぎつけて来てたよ」 「え、じゃあ、前のスタナーっていうか、おじさんには弟子がいたの?」 「いいや。あなたは破壊師には向かない、ってその都度断ってた。それで一人もいない。や、いたとしたら――」 「……おまえが弟子だった、ってことか」 「弟子扱いはしなかったけどな」スタンは話しながら、写真をもとの場所へ戻しに行った。「ただ、破壊師の素質みたいのが俺にはあった。親父のやってることをやってみたい、ってえのもあったし、あっちもいろいろ教えてくれた。でも、俺がスタナーの息子だって事は内緒にしろって言われてたんだ」 「なんで? いじめられるとか?」 「それもあるかもしれない。『そういう事が知られると、どうしても他の人は、おまえのことを特別な風に見てしまうんだよ』とかって言ってた」  そこではじめて、スタンはジュースに口を付けた。 「で、2年前に車にひかれて親父は死んじゃった。それで俺がスタナーって名前を継いだんだ。おふくろは、さっきの写真をとってそんなに経たないうちに……まあ、死んでたから、ここには俺と、ばあやだけになった」 「ばあや? あの人?」 「そう。お手伝いだ」  合点がいった表情でケイツが何度もうなずく。「そうだったんだあ」 「それで」何口かジュースを飲んで、スタンが真剣な表情でケイツの方を見た。「おまえがさ、もし、俺の友達だったら、……このことは内緒にしておいてくれ。これ以上俺の正体が広まったら、絶対いろんな奴からあれこれ言われて――その、嫌なんだよ、本当に、そういうの」 「うーん、そうしたいけど」ケイツはため息をついた。「ぶっちゃけ、口かたい方じゃないしなあ」 「お願いだ。この通りだから、誰にも言うな。この通り」 「わわっ、おいおい、そんなキャラじゃないだろ」テーブルに手をついて深々と頭を下げるスタンに、ケイツは焦った。「わかったよ。誰にも言わないよ。言わないから。でも条件付き」  スタンが顔を上げる。ケイツはにっこり笑って、言った。 「――おれを、スタンの弟子にしてください!」 「……はあ?!」驚き困惑するスタン。「お、おまえ、だって、俺なんかがスタナーだから、がっかりして諦めたんじゃなかったのかよ」 「だって故に、それでも先代スタナーさんの息子でおわしますじゃないですか! そして親愛なるお父様のお教えを受けてござったたった一人の存在でしょう! 現にスタナーをお継いで申し上げらっしゃいますし!」 「変な敬語使うな! 気色悪い!」 「おほん! とにかく弟子にしてよ! おれ、白昼夢破壊師になりたいんだよ。こんなに近くに師匠になってくれる人がいるなら、やっぱりいろいろ教わりたいよ」 「……」スタンは苦々しい顔をして、ケイツから目をそらす。「弟子は駄目だ」 「えーっ?! なんでさ?」 「俺は親父じゃないんだ。スタナーだけどスタナーじゃない。弟子なんか作ってられねぇよ。それに、さっきも言ったけど、素質のない奴はいくらやったって破壊師にはなれねぇ」 「……素質? ははっ、そんな事を気にしていたのかね○田一君!」 「何のキャラだよそれ」 「素質ならあるよ」胸を張って誇らしげにケイツが言った。「おれ、『クリスタル』見えるもん!」 「……」スタンがケイツを見つめる。「何だって?」 「知ってるよ、クリスタルが見える人じゃないと白昼夢破壊師になれない事くらい。雑誌で何度も読んだ」 「……」  スタンはケイツを見ながら、しばらく黙り込んだ。残っていたオレンジジュースを一気に飲んだ。そして、 「本当に、クリスタルが見えるのか?」確認する様に聞いた。 「だから、見えるんだってばよジョニー!」 「今度は何のキャラだよ。じゃあ、『クリッ』したことは?」 「くりっ?」ケイツは聞き返した。「なんの事? それ」 「相手の中に入り込んだ事があるか。潜入《エンタリング》のこと」 「それは……、それは」  急に表情を暗くするケイツ。「それも、できないと駄目なの?」 「ないんだな」頭をかきながら、スタンは座り直して、「ちょっと、こっち向け」 「向いてるよ」 「じゃなくて、俺に目を合わせろ」 「目を合わせる……?」同じように座り直して、言われたとおりにする。 「そう。そうして、俺の目の中のクリスタルを見てみろ」 「あ、う、うん……」  それくらい簡単にできるよ、と思いながら、ケイツはスタンの緑色の瞳に焦点をあわせてじっと見つめた。ケイツにとっては、ちょっとしたコツがいるだけだった。  彼はスタンの瞳から目を離さずに、ゆっくり深呼吸を繰り返した。鼻から息を吸って吐く。しばらくそうしていると、自分の頭の中に弱い睡魔が漂って少しずつもやがかかってくる様な感じがしてくる。妙に落ち着いてきた。スタンの瞳から自分の視線がずれていないようで、ずれてくる。  そうだ。この感じだ。ケイツは自分がいい状態なのを確信した。  周りの物音、遠くの車の音、それらが少しずつ聞こえなくなって、代わりに聞こえていた耳鳴りも通り過ぎる。  視界のふちがぼんやりして、ゆっくりと渦を巻きながら闇になって消えていく。闇はどんどん視界の中心へ、中心へと浸食していく。スタンの顔すらも曖昧になって、黒く溶け込んで見えなくなる。瞳。二つの瞳だけが、ぼんやりとした頭の中で、はっきりと浮かんでいる。  そして、その奥に、かすかに光るものがあった。それは明らかに小さいのに、すぐ目の前に巨大にあるみたいに映し出されていく。まぶしい光の中に、二つの同じ形をした透明な結晶が、透き通った塊が、そのくぼみ、溝、へこみ、屈折まではっきりとケイツへ姿をはっきりと現した。 (よし。見えた、クリスタル)ふっとケイツが微笑んだ、そのとき、カチッ、ともパリッ、ともつかない、何かをはじいた様な小さな音がして、 「――なかなかやるじゃんか!」  耳元で大きな声がびりびり聞こえた。はっとして意識をそこへ移すと、顔の間近ににやっと笑ったスタンの顔が、 「うわぁっ!」驚いて、思わず叫ぶと、ケイツは顔のあった方と反対側に飛び退いた。意識も視界も引き戻されて元に戻った。心臓がものすごい早さで激しく動いていて、汗が噴き出してくる。 「びっくりした?」いたずらっぽく笑って、先ほどと変わらない位置にスタンは座っていた。「俺が見えただろ。でも、ここから動いてないぞ」 「も、もしかして、おれの中に潜入したの?」 「そう。俺にもおまえのクリスタルが見えてたんだ。その中に自分が吸い込まれていく感じを強くイメージすると、そのうち『クリッ』って音がして、本当に入っていけるんだ。おまえの心の中にね。おまえにも音、分かっただろ?」 「う、うん」ケイツは落ち着くために何か飲みたかったが、コップは空だったので木の器に入ったチョコクッキーを二枚とってほおばった。それを飲み込んでから一度、深く息を吐く。「死ぬかと思った。……本当におまえ、スタナーだったんだな」 「って、あんなこと言ってて、やっぱり信じてなかったのかよ」口をとがらせるスタン。 「い、いや、そりゃ頭では信じてたけど、実感が」 「まあいいけど。――ばあや!」  呼ばれて、奥のドアからまた老婦が顔を出す。スタンが老婦に向かって、 「お茶でも水でもいいから、飲み物おかわり」 「はいはい」 「あとさ」 「はいはい?」  顔だけ出したままの老婦に、スタンが少し間をおいてから、言った。 「こいつ――ケイツって言うんだけど――、俺の弟子にするから」 「……え?」目を丸くするケイツ。 「これからしょっちゅう来るだろうから、顔覚えといて」 「弟子……」老婦も意外そうな様子で、「いいんですか? 随分簡単に決めてしまって」 「いいんだ」表情を変えずにあっさりスタンは言った。「じゃ、そうゆうことだから」 「……はいはい」クスッと微笑んで、老婦は奥の部屋へ引っ込んだ。 「ど、どうしていきなり?」ケイツはまだ状況が飲み込めず、目をぱちくりしていた。「おれに、本当に素質があったから?」 「それもあるけど」ため息混じりにそう言って、スタンもチョコクッキーへ手を伸ばした。「これで俺のこと、黙っててくれるんだろ?」 「う、うん」ケイツの顔がみるみる明るくなっていく。「もちろん!」目を輝かせていった。 「ただし、さっきの変な敬語とかはやめろ。今まで通り、普通だ。俺もそうするから。あと、俺はスタナーだけど、多分おまえの考えてるスタナーじゃない。弟子っていっても、おまえの考えてるような弟子扱いはしないからな。ただ、おまえに白昼夢破壊師のやることを教えるだけってこと。師匠とか弟子とかさ、そういうの別にして、いや、あっても、その前に、……ほら、その」  少し言いよどんでから、スタンは続けた。「友達なんだ、からな」 「うんうん、分かった」ケイツが強くうなずく。「それに、そっちの方がなんか、ずっといいじゃん。楽しそうで」 「ん、それならいいんだ。よし」 「あー、今おれスタナーの弟子になったんだなあ」こみ上げてくるうれしさを押さえられない風でケイツが言う。「スタナーの弟子かぁ!」 「他人に自慢とかすんなよ」 「このような取るに足らないものをご愛顧ながら弟子にしていただき、本当にありがたくありえないまこと幸せ太郎でした!」 「だからさ、その敬語を……」額に手を当てて、スタンは重苦しくため息をついた。「おまえ、約束守る気あんの?」       *  突然、入り口のドアをノックする音がした。あまり丁寧ではない。 「はいはあい」すぐに老婦が奥から出てくる。 「警察ですけど」女性の声だ。ピン、と張った事務的な口調。  スタンの表情が一瞬で厳しくなる。ケイツも緊張した雰囲気を感じてあわてた。 「え、もはや家宅捜索?!」 「ちげえよ」スタンはドアのほうを向いたまま言った。「客」 「客? おまわりさんが?」 「おまわりが客を連れてきたんだ。おまわりって言うか――」  老婦がはいはい、と声をかけながらドアを開いた。ベージュ色のロングコートを着た、三十歳くらいのショートカットの女と、その背後に背の高い若いスーツ姿の男が紺色のウインドブレーカを着た中年の女性を連れて次々に入ってきた。 「刑事だけどな」スタンが言った。  老婦に会釈した後、コートの女は鋭い視線で事務所を時間をかけて見回し、最後にスタンに目を留めると、フッ、と笑って、 「先週、中間テストがあったでしょう」とスタンに聞いた。 「は?」ぽかんとするケイツ。 「……そういう話から入ってくるのかよ」スタンは彼女から目をそらす。 「5教科の点数全部言ってみなさい!」 「へ?」ぽかんとしたままのケイツ。 「夏休みになったら、得点表見せるって」 「まあたそうやって悪い点数見せるのを延期して延期してずーっと先延ばしするんでしょう! 保護者は誰だと思ってるの。保護者に正直に点数見せてこそ庇護の身ってもんでしょ!」 「ほごしゃ?」ぽかんとしつづけるケイツ。 「何回勉強しなさい勉強しなさいってこっちが言えば気が済むの! 洗脳するまで言うけどいくら親から仕事継ぐんだからって高校には行きなさい。そして高校へ行くためには勉強しないと入れないの。はい、わかった?!」 「あのさあ、ダフネおばさん」一方的に話す女をにらみながら、スタンが言う。「友達の前でそういう話しないでくれない?」 「ん?」ダフネ、と呼ばれた女性はそこでやっとケイツのほうを見た。がらっと顔が明るくなる。「あら! 友達がいたの。それはそれは……お見苦しいところを見せちゃって悪かったわね。っていうかスタン、あんた友達ここに連れてきたことあったっけ?」 「お、おじゃま、してます」ケイツは圧倒されてそう言うのがやっとだった。 「わあ、なんかかわいいんだけど! 中学生だからかなあ。まだけがれの『け』の字くらいしか知らない感じ? かわいいー」急にダフネが目を輝かせはじめる。「名前なんて言うの?」 「あ、け、ケイツです。ケイツ・アルマイ」 「アルマイ。あのアルミみたいな綴りのやつ? あはっ、にあわなー」 「おばさん、仕事」「ロレル刑事、そろそろ患者を」  スタンと背後の若い男があきれ気味に声をかけると、ダフネははっとわれに返って、 「そう、職務中だった。今かわいい男の子にはしゃいだの内緒ね、アポロ君」 「は……はあ」若い男が汗をハンカチで拭う。 「いつものことだけど、よろしく頼むわ。この人なんだけれど」ダフネが言うと、若い男、アポロとやらが自分の連れてきた女性をスタンに見せた。ダフネより少し髪が長いが、大分乱れており、頬はこけ、顔はやつれ、表情がない。よどんだ瞳で虚ろにどこか遠くを見て、一言もしゃべらず、その両手首には手錠が鈍く光っていた。一人で立っていられないらしく、アポロが両肩をつかんで支えている。  ケイツはその女性と、彼女をけだるそうに見つめるスタンを交互に見ていた。 「この人、白昼夢遊病?」 「おおー、よく知ってるわねえ。おねえさん感心」ダフネはケイツが話すと機嫌がよくなる。「でも、これからはちょっと、部外者の人には見せられないの。上の古本屋でしばらく立ち読みでもしててくれる? スタンの少林寺気功で治療してもらうのよ」 「変なウソはいいから、おばさん」ため息交じりにスタンが言う。「こいつ、俺の弟子」 「はあ? 弟子?」目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。「弟子? 何あんた突然生意気なこと言ってんの? 本当?!」 「あ、その、はい、弟子、です……」怒鳴られやしないかとびくびくしながらケイツが言う。 「ええーっ……弟子って、弟子って……、あれ、わたし今日頭痛薬と間違って覚醒剤でも飲んだかな」 「とにかく、こいつにも見てもらうから。それでいいだろ」 「……あのさ、あんたさあ……」ダフネは深くため息をついてから、スタンをにらんで厳しい口調で、「生半可な気持ちだったら、許さないわよ。分かっててそんなこと言ってる?」 「当たり前だ」スタンもすぐ真剣ににらみ返す。「俺が逃げたことなんか、一度だってないだろ」 「勉強以外はね」皮肉っぽく笑んでダフネが付け加える。 「うるさい。集中力きれるから余計な事言うな」スタンが顔をしかめて、両手で耳をふさぎながら事務所を出て行く。「アポロさん、その人上まで連れてきて。ケイツもついてこい」 「あ、うん」ダフネと老婦に会釈して、そそくさとケイツはスタンの後を追った。アポロと女性もその後に続き、事務所のドアが閉められた。空いたソファに落下するように勢いよく座ると、ダフネはひときわ大きなため息をついた。同時に老婦が、いつのまにかいれていたらしいコーヒーを持ってきて、テーブルに置いた。 「ありがと」そのコーヒーをすすりながら、「……しかし、何でまた突然弟子なんて作ろうとするかな。なんかあったの? クラリスさん」 「あのお友達に、破壊師の素質があるとおっしゃってましたよ」老婦が反対側に腰掛けて、置き去りになったチョコクッキーを一枚かじった。 「素質って……。そんなすぐさま弟子にするほど喜ぶものでもあるまいに。ケイツちゃんって、『ちゃん』ってさすがに失礼かな」 「さあ」苦笑する老婦。「まあ、いいんじゃないですか?」 「いつからスタンの弟子なの、ケイツちゃん」 「えーと」老婦は壁の掛け時計をチラッと見て、言った。「5分くらい前からですよ」       * 「名前はマニラ・クレイツ。四十二歳で、三年前に家の火事で旦那さんと一人息子を亡くしているんだ。それがきっかけでお隣の一家を逆恨みするようになって、麻薬に走った上、お隣一家の主人を殺して、それを目撃した女性を主人の愛人に見せかけて殺し、さらに娘さんを誘拐、監禁したという容疑で逮捕されたんだけど、途端にこの有様で……ふんっ!」  顔を真っ赤にしながら、人形のように脱力したままの女性を抱えて階段を上るアポロを、もう三階にのぼりきっていたスタンとケイツが眺めていた。 「ほ、ほんものの、殺人犯なんだ……」 「わくわく、とか思ってんのか?」 「思ってない思ってない!」ケイツは図星だったのでむきになって首を振った。 「み、見てるんなら手伝ってくれよ……」 「あ、は、はい!」「俺、オゴさんに許可もらってくるから」  ケイツはあわててアポロのほうへ駆け下り、スタンは古本屋の中へ入っていった。「いらっしゃいませぇ」と男の声で気の抜けた挨拶が聞こえる。 「あれ、どうして古本屋へ行くんだろ」 「ああ、治療のときにはいつも四階の部屋を使わせてもらうんだよ。古本屋のオゴさんが四階のお店もやってるから」 「え、四階にお店なんかあったんですか?」 「知らなかったかい? あそこは――って、せっかく手伝いに来てくれたんなら、こっち、持ってほしいなあ……」 「あ、はい、すみません!」いちいちあせりながら、ケイツは女性の脚のほうを持たせてもらって、二人で担架のように運んでいった。ようやく四階への階段にさしかかったところで、スタンと、20歳くらいの楕円形のメガネをかけて不精ひげを生やした若い男が古本屋から出てきた。 「あれ、オゴさんは?」アポロが、青年をいぶかしげに見ながら聞いた。ケイツが以前見た古本屋の主は、小太りの中年の男だったはずだった。 「入院してんだよ。なんだっけ、コウテ、後転?」 「後天性表裏逆転虫垂下部逆上症候群」青年が忌々しそうに答えた。「モンゴルじゃないと手術ができないっていうんで、行っちまったから、三日前から店をまかされたのさ。ちなみに父ちゃんはジンジャだけど僕はショーゴです、ショーゴ・オゴ。当分よろしく」  どんな症状の病気なのかケイツには想像もつかなかった。  やがて、五人は四階にたどり着いた。中へ入るドアの上に「時と精神の部屋」というどこかで見たことのあるような名称の看板が取り付けられていて、大分色あせている。 「今日はお客さんまだ来てないんで、カギ閉めてたんだよね。ちょっと待ってて」ポケットからカギを取り出し、オゴがドアノブのカギ穴に差し込む。 「ここ、何のお店なの?」ケイツが聞いた。 「昼寝屋」スタンがそれだけ言った。 「そ、そうなの……」 「1時間50円なんだ。良心的だよね」アポロが少しだけ説明した。「内税だし」 「そ、そうなんですか……」  こんな住宅街に昼寝屋があって、誰がくるんだろう、とケイツは思った。  オゴがドアを開けて、中に4人を招き入れる。「じゃあ、僕下にいるから、終わったら言ってください」  中は薄暗く、広い空間の真ん中が通路になっていて、左右にびっしりと大き目のテントがキャンプ場のようにひしめいていた。床は音が立たないように緑色をした厚めのカーペットがしかれている。一番奥の突き当たりに、「私用」という小さなプレートが横に張られたドアがあり、そこにスタンは真っ直ぐ入っていった。ケイツ、女性を抱えたアポロの順でそれに続く。  ドアは開けるときも閉めるときもほとんど軋まず、下のほうに目を移すとゴムパッキンで音漏れを防いでいた。子供部屋くらいの大きさで、奥にパイプベッドが、手前にスタンの事務所のようなソファとテーブルの応接セットが一組。それ以外は天井に電灯があるだけだ。  ケイツはあたりを見回しながら感心するばかりだった。全員が入ったのを確認すると、スタンはアポロに女性を座らせるよう言って、ドアを閉めて電気をつけた。ぱっと、真っ白な壁に囲まれて、緊張した空気の静かな空間が出来上がる。 「じゃ、やるか」スタンも女性の反対側に座って、思い出したようにケイツのほうを見た。「おまえもこいよ」 「え、おれ? 見るだけじゃないの?」 「練習だよ、練習。別に怖いことなんかねぇ。さっき俺が話したように、集中してイメージできれば、簡単に入れる」 「でも、治療なんか、まだ……。邪魔になるかも」 「入るだけだって。その後は俺のやってることを見てりゃいいんだ。知ってるかもしれないけど、潜入した後なんかあったって、元通り目がさめるだけなんだから。白昼夢破壊師になりたいヤツは、まず、そういうのを体で覚えなきゃだめだろ」 「そ、そうか……」しばらく黙った後、覚悟を決めたように、「そうだね、やってみるよ!」口を真一文字にひきしめて、ケイツはうなづいた。  スタンがにやっと笑う。「よし、決まりだ」 「仕事なんだからね。頼んだよ、スタン」アポロは少々不安げな顔つきで部屋の隅で壁にもたれて腕を組んでいた。「ケイツ君も無理するなよ」 「へいへい」「あ、う、はい、がんばります」  ケイツは緊張でどきどきしながらスタンの隣に腰掛けた。正面に、こっちを見ているようで見ていない気味の悪い女性の姿がある。 「反応がないっていうのはさ、かなり重症なんだよね?」 「黙って集中」ケイツがスタンのほうを見ると、スタンは一段と鋭い視線を女性へ向け、まったく瞳を動かしていなかった。さっきまでとはまた違う、凍りついたような、殺気をはらんだような表情をしていて、ケイツは思わず身震いした。 (こいつの、こんな顔見たこと、ないな。……おれも集中集中)  ケイツは一度、緊張でまた震えてきた息を吸って吐いて、女性の濁った瞳をしっかり見つめた。 (はじめてリアルで見たよ。……本物の白昼夢遊病)  少しずつ、彼女の周りの風景が見えなくなり、自分の周りの感覚が消えていく。 (一体、どんな夢を見ているんだろう)  少しだけ、視野が狭くなり、じりじりかすかに響く、電灯の音が遠くなり、もやもやとしたものが頭の中にたまってきて、 (人を殺した人が、閉じこもった夢)  一瞬でぷつんと、糸が切れたようにケイツの意識が引き戻された。 (あっ! だめだだめだ集中しなきゃ!)  もう一度、彼女の瞳に意識を集中する。心臓の鼓動が大きくなって、それでも聞こえないふりをする。息を激しくしようとする衝動に気づいていないふりをする。 (真っ白に真っ白に真っ白に真っ白に)  やがて、水面に墨汁で輪を描くように、加速度をつけて彼の視界が闇に閉ざされて、 (瞳を瞳を瞳を瞳を)  ノってきた実感がしてくる。やがて、ケイツの茶色い瞳に、彼女の灰色の瞳だけが映る。かすんでいる。しかしその奥に、わずかなきらめきが見える。 (クリスタルクリスタルクリスタルクリスタル)  そのきらめきは徐々に大きくなっていく。何か一つの輪郭をなして、いびつな一つの輪郭をなして、さらに背後の逆光を浴びながら、弱く、だが力強く輝き始める。 (クリスタルクリスタルクリスタルクリスタル)  クリスタルだ。二つ見える。それぞれの半分以上に、黒いしみのようなものがへばりついている。  クリスタルだ。 (吸い込め吸い込め吸い込め吸い込め吸い込め)  おれを吸い込め。  二つのクリスタルが、中心に近づいて、すれ違って、一つに重なった。その瞬間、ケイツは自分が本当に体丸ごとクリスタルに吸い込まれる感覚に襲われた。 (この感覚……?)  今いるところからちぎりとられて、掃除機のように一気に瞬きするまもなく突き抜けていく感じ。ケイツは不思議と、ちっとも怖くならなかった。クリスタルは加速度をつけて大きくなって、そして、まぶしくて何も見えなくなって、  クリッ、という小さな音がした。  何かが頭の奥で、いや、それを超えたもっと離れた場所ではじまって、波のようにゆらゆらと広がっている。ケイツはゆっくり目を開き、それを見ていて、聞いていて、ただぼんやりと漂っていた。ふわふわとしていた。だが、自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、あんなによく知っていたはずなのに、それを思い出さなければいけないことにすら気づいていなかった。  炎が見える。  ろうそくのそれのような優しいゆらめき。  そのゆらめきが少しずつ形を変えていき、何でもなくなる。そのうち、それは豆粒の様に小さく、点の様に小さく縮んで、ケイツの眼下にびっしりと敷き詰められていった。 (おれは、)  その周りの闇が、青を少しずつ流し込まれた様にかすかな明るさを帯びる。それが眼下のびっしりとしたオレンジの光の波紋とシンクロして、不思議な夜闇の空気を作り出す。そして光の点と点の空隙がかき混ざるように変化していき、 (ここは、)  街だ。  眼下に果てしなく街が、明かりをともした家々と街路灯が広がっている。 (おれは、ここで、とんで、)  彼ははっとした。  強烈な落下の感覚。激しい空気の抵抗。一気に近づく街並み。藍色の空を飛んでいく星たち。 「う」  ケイツの中をただひたすら恐怖が覆い尽くした。夜空を落ちている。落ちて落ちて落ちてずっと落ちて 「――うわああああああああああぁぁぁぁっっ!!」  なすすべもなく突き抜けるように拡大していく街並み。真っ白な頭の中。家一軒が視界を埋め尽くした。 (ぶつかる!!)  その時、ケイツは脇腹あたりに大きな衝撃を感じた。変な声が出る。ぶれて、見るものがひっくり返って空になる。見えている星が横に残像をゆっくり引いていく。 「ぶつかってたらきっと、放出《アウト》してたな」頭の後ろで声がした。彼のよく知っているはずだった声だ。 「ここは……どこ?」その声に聞いてみる。ケイツ自身でも頼りない声だと思った。 「まだ自覚できてねぇんだな」意味の分からないことを声は答えた。「夢ん中」 「夢?」そうだ、そういうものだったかもしれない。「よく分からないんだけど?」 「いいか」声はケイツの問いを無視して、「俺の言ったことを繰り返せ。俺が初めて他人の夢に潜入したとき、親父が俺にもそうさせたんだ」 「繰り返す……」  背後の声の主に助けられたケイツの体は、住宅街の細い道に沿ってゆっくり高度を落としていく。 「ここは、夢の中だ」声は言った。 「ここは、夢の中だ」ケイツは繰り返した。 「俺は、夢の中にいる」 「おれは、夢の中にいる」 「俺は、夢の中で、……自由だ」 「おれは、夢の中で」  ケイツはそこまで言って、はっと我に返った。  手探りしようと思ってもできなかったところがすべて生き返る。  頭の中ですべての回路に一気に電流が通り始めた感覚。 「自由だ」  彼は一度目を閉じて、もう一度はっきり開いた。 「分かったよ、スタン! ここは夢の中だ! おれは白昼夢遊病を治療するおまえの弟子になってついてきたんだ! なあ!」  ケイツは言って、自分の服をつかんでいるはずのスタンの方へ振り向いた。そして、一瞬目を疑った。  確かにそこにはスタンがいた。が、夢に入る前まで見ていた服装ではなかったのだ。上着もパンツも真っ黒で、革の様な光沢があり、それだけでできている、と思わせるくらい、腕の部分から足の裾まで太いベルトとその金具がびっしりとついていた。  以前ケイツがテレビで見て目に焼き付けた、先代スタナーの服と色違いだった。 「ああ、そうだ。あってる」スタンは彼へ向けて、不敵ににやっと笑んだ。「――よく来たな、ケイツ」 「うん」ケイツも彼に笑みかえす。 「やっと会えた。『スタナー』に」 後編  殺人犯の女性の夢だとういうから、ケイツは何だかおどろおどろしいものを想像していたのだが、そこは真夜中の住宅街で、同じ色をした電灯が薄暗く家々を照らしていた。音という音がなく、人どころか、猫の気配すらしないので、まるで映画の撮影セットのようだ。空で満月が不気味に明るく輝いて、星の光を素っ気ないものに見せている。  スタンの背後について、おっかなびっくり辺りを見回しながらケイツは歩いた。そして時々、スタンの奇抜な、そのベルトずくめの黒い「仕事着」をまじまじと見た。 「やっぱり、本物なんだなあ……」ケイツは思ったままを言って、それからその言葉にびっくりした。「あれ? おかしいな」おかしいな、と思いながら口をぱくぱくさせる。「あれ、心の中で喋るのって、どうやるんだっけ?」 「ここが『心の中』なんだから、思ったことがそのまんま出てくんのが当たり前だ」振り返らないでスタンが言う。「慣れりゃそのうち『心の中の中』みたいなもんができるから、適当にいろいろやってみろよ」 「心の中の中? む、難しいことを言うなよ……。こ、心のぉー、中がぁー、中をぉー」  唸っているケイツに構わずに、スタンはどんどん進む。 「……そう言えばさ」ケイツが聞いた。「その衣装って、やっぱり想像なんだよね」 「ん?」スタンは立ち止まって、自分の身体に目を落とした。「ああ、まあな。白昼夢破壊師ってのは、想像が命。どれだけ他人の心の中でリアルに自分の思い通りの『想像』ができるかで、いい仕事ができるか決まるからね。訓練の一つだ。おまえも白昼夢破壊師になりたいんだったら、何か考えてみたらいいんじゃない?」 「なんかって、現実離れしてた方がいいのか? スタンみたいに」 「訓練にはなるな。そうだな、おまえなら――」スタンは笑って続けた。「あれどうだ? 股んところが白鳥のさ、バレリーナとか」 「なっなんでそんな、みじめで古くさいもの!」  けらけら笑いながら、またスタンは歩き出した。ケイツは唸りながらまたついていく。 「あとさあ、白昼夢遊病になる原因って言うのは、『クリスタル』に何か異常があるからだから、それを何とかすればいいんだよね」 「そう。今回はクリスタルになんか黒いのがびっしりついてた。付着石《タタール》に似ているけど、何で黒いんだ……? まあ、それを取ればいい」 「クリスタルはたいてい、わかりにくい場所にあるから、『患者さん』を見つけ出して、カウンセリングみたいのをやって、リラックスさせて、場所を教えてもらうか――」 「それか、そいつが油断してクリスタルを出してくるから、それを一気にたたき直す」 「たたき直す、って……」  すると、スタンは腰の脇のベルトのいくつかに通して引っかけていた、懐中電灯くらいの長さの細い、金属でできたような棒を引き抜いた。 「なんじゃそりゃ」ケイツが思ったまま聞く。 「俺の『仕事道具』」言いながら、スタンはその棒を横にして両手で端を握ると、一度目を閉じて、深呼吸をして、目を再び開くと、一気にそれを左右に引いた。棒は丁度真ん中で割れ、そして、ネオンのような青い光が、二つに割れた棒をつなぐように伸びて広がる。 「っな、なんじゃそりゃ!」ケイツが思ったまま叫ぶ。  無言で歩きながら、スタンは両手に握った棒の半分半分を、それぞれ無造作にぶらんとぶら下げた。すると、青い光はちぎれるように曲線を描いて二つに分かれ、だらんと双方の握りの先から、垂れ流されるようにゆらゆらこぼれていく。彼はそれを見ながら立ち止まって、辺りをぐるりと見回した。そして、出てこねえな、と呟く。 「すごい! これ、おじさんっていうか先代スタナーの道具じゃないね!」スタンの前に回ると、ケイツは目を輝かせてそれを見た。「先代スタナーは『七つ道具』だったけれど、スタンのは何なの?」  ケイツの様子を見て彼はふっ、と笑うと、すぐ真剣な表情に、というよりは不敵な表情になって、 「別に……名前は付けてないけど、とにかくこんな風に、のびるやつだ」言うと、軽く左右に「のびるやつ」を振った。それにつられて垂れている光もくねくね曲がる。そして、おもむろに両手親指を伸ばして、握りの先端近くにある、四角く小さな突起を同時にカチッと押した。その瞬間、バチバチッとまぶしく白い火花を散らしながら、空を切る音を立てて青い光が一直線に伸びきった。 「ぬおっ!」ケイツが変な声を上げて、「――ぬおっ、てなんだよぬおって」自分につっこんだ。「すげえ! 『スターなんとか』みたいだ!」 「これぐらいで驚いてるようじゃ、ついてけないぜ」  スタンは言うと、二本の長剣のようなそれのボタンから指を離し、すぐ横の家に向かって十字に振りかぶると、片足で蹴り出して、たたみかけるように、のびるやつを素早く振り下ろした。解放された青い光が、火花を帯びながらしなって、勢いのついた状態でヒュッ、と塀へ叩き付けられる。轟音とともにコンクリートの塀が崩れ、その中へスタンが飛び込んでいった。「――本番はここからだ!」  彼はそのまま、のびるやつを目の前の、二階建てで何の変哲もない民家にスイングさせた。反動でさらに勢いのついた光の鞭が、形が認識できないくらいの早さで家の壁に衝突し、爆発したような横に長い巨大な穴を開けた。一帯に突風が吹き抜け、ケイツは前髪を揺らしながらポカンと立ちつくしている。それを気にする様子もなく、スタンはのびるやつを今度は足下に叩き付けた。地面が大きく振動し、彼のいる家の庭に二つの小さなクレーターを作って、彼は一気に、電柱より高くジャンプした。そのまま、二本の伸びるヤツを頭の後ろに振りかぶって、落下とともに一気に家の屋根へ振り下ろした。言葉にしがたい破壊音とともに、無事だった部屋のガラスが全て吹き飛び、二階から一階まで、縦に大きな裂け目を作って、ぐしゃぐしゃな瓦礫が吹き出した。そして、スタンが平気なふうで着地して、のびるやつをピンと長剣に戻した瞬間、堰を切ったように民家は崩れだした。 「す、スタン……?」ようやく、ケイツが我を取り戻して声を出した。 「んー、何だ?」 「な、何やってるんだよ」 「何って、ぶっ壊してんだよ、この家」 「だって、……もし中に誰かいたら、どうするんだよ!」 「へっ、ここは夢ん中だぞ、忘れたのか? ここにあるものは全部、白昼夢遊病の人間が作った幻だ。人がいようが、何だろうが、大したことじゃねえ」 「でも……」ケイツは一度言いよどんで、また、「でも!」 「『先代スタナーは、そんなことはしなかった』」スタンが言った。 「……!」ケイツは何も言えなかった。 「今度は漏れてねぇよ。俺が推理しただけ」彼はケイツの方を向いて、にやっ、と笑って言い放った。「だから……、俺はスタナーだけど、スタナーじゃないんだって」  そして、再びのびるやつを地面に振り下ろし、高く飛び上がると、隣の家へ、そしてまた隣の家へと、次々にのびるやつで襲いかかっていった。 「こいつは俺たちに気づいているはずなのに、何もこっちに仕掛けてこない! 自分のコントロールできねぇもんが入り込んできたら、普通嫌がって追い出そうとするもんだろ、でもこいつは違う! やり過ごそうとしてるのかはしらねぇが、そう言う時は!」  無音だった夜の住宅街に、耳を貫くような音と、むせかえるようなホコリが広がり、砂山のようにして家々が崩れていく。ケイツから数十メートル向こうの塀を吹き飛ばして、スタンがその向かいの生け垣へ躍りかかる。 「――いやがおうでもしっぽを出してもらうんだよッ!」  空を切る音と、焦げかかった生け垣の葉が舞う向こうへ、喜々とした表情でまた突き抜けていくスタンを見て、ケイツは一瞬寒気を覚えた。その姿、特に目は、人々を救っている人間と言うよりは、破壊の虜になった獣のようにも思えた。今のような表情は、今まで一度たりともケイツの見たことのないものだった。  前方で、山折りの屋根が帽子のように外れてひっくり返りながら道を塞ぐと同時に、すぐ背後で爆発音が聞こえて、両耳を押さえながらケイツはうずくまった。 「うわぁっ!」  ぱらぱらと頭上に降る残骸のくずに咳き込みながら、おずおずと左右を見回したケイツの真横で、スタンが彼を向いてしゃがみ込んでいて、また飛び上がった。 「ひい!」 「何だよ、びびってんのか? これくらいで」 「な、び、びびってなんかないじょん! 健全酢の物!」 「なんか言葉が変だぞ。ほら、落ち着け落ち着け」  言って、腰の両脇にのびるやつを差すと、ケイツの両肩を何回かもんで、それから背中の襟を掴んでぐっとひっぱって立ち上がらせた。いきなり首が絞まって、ケイツはわけが分からなくなる。ぐえ、と彼の口から変な声が出た。 「ああ、そりゃ首じゃまずいよな……さっきどこ持って飛んでたんだっけ」 「ご、ごじだぼぼぼびびゃんず(腰だと思います)」 「あ、そっか」  言ったのとほぼ同時に、スタンはケイツの綿パンのベルトを片手でぐいっと掴んで、もう一方の手でのびるやつを一つ抜いて、それで地面に鞭打つと宙を舞った。ケイツのすぐ足下にあった地面がぐんと小さくなって、切れてだらんと垂れ下がった電線や、明かりのついたまま折れた電灯や、見る影もなく壊された十件近い家々がミニチュアになる。 「うえ、と、飛ぶっ?」  自分がベルトだけで支えられていて、もがいてみても、すがるところが何もないのに気づいたケイツは、 「おあ、おわあああああああああおわああああ」  スタンと一緒に空中でアーチを描くたび悲鳴を上げた。 「この程度で怖がってたら、すぐに放出されちまうぜ! 早く慣れろ!」  威勢良いスタンは、のびるやつの反動ではなく自分の足で蹴り返して、悠々とジャンプを繰り返しながら、のびるやつを眼下の建物達めがけてめちゃめちゃに喰らわせてなぎ倒していった。時折ヒュン、ヒュンとケイツの目の前を光の残像が通り過ぎて焼き付いて、なま暖かい風が吹き抜けていくので、ケイツは身を縮ませて震わせた。 「……これに慣れろって言われても……、……無理だ……」ケイツは本気でこれが夢なのか疑った。 「お」スタンののびるやつを振るう手が止んだ。「ほら、見てみろよ」 「え?」 「何か来たぜ、こっちに。それに、何か聞こえてきた」 「何かって……?」  おそるおそるケイツが顔を上げると、空の遠く、油絵のようにつぶれてはっきりしない景色の向こうがうっすら白みがかってきていた。夜明けが近いような感じだ。そして、向かって左側、森や山が広がっている方角から住宅街の方へ、しぶきを立てながら、巨大な水の塊が空中を走ってきた。途中で少しずつカーブしてきていて、明らかに二人の方へ向かっていた。ザバザバと言うしぶきの音とともに、サイレンかなにかがグニャグニャな音程で鳴り響きはじめ、何かがきしむような音も混じっている。 「……でっかい、波?」その塊の形を見て、ケイツは目を点にした。「何で空中に波? 何で? どうやって浮いてんの?」 「だから、これは夢なんだって。都合なんかつかなくていいんだ」スタンは鼻で笑った。「俺たちを『押し流す』ことだけ考えてるってこと。――さて」そして、波のやって来た山林の方をじっくり見て、「ははーん、本丸はあそこか」 「『患者さん』がいるってこと?」 「そっ」 「それより、こ、こっちの波何とかしないと! わっ、予想以上にでかっ!」  ケイツがじたばたしながら指さした先の波は、二人の背丈の数倍はあろうかという高さの頭をもたげたまま、ざっと数十メートルくらいの幅で真っ直ぐにじわじわ迫り、追いつめてくる。 「っていうかでかい! でかいってスタン! 逃げなきゃ! 死ぬってホント死ぬ!」 「逃げたって、向こうは追っかけてくるから無駄だぜ。落ち着けよ」 「落ち着けないぃっ!」真っ青になって首をぶるぶる振るケイツ。 「分かった分かった」ため息混じりにスタンは言った。「おまえを落ち着かせるのは諦めたから、しばらくパニックにでもなってな」  そして、一気に住宅街の十字路に落下して、着地すると、今度は深く膝を曲げて片手をついただけで、地面を蹴り返さなかった。そのまま上空を見上げると、真っ白なしぶきの塊がごうごうと音を立ててあっという間に通り過ぎていった。 「……あれ?」道のど真ん中でしりもちをついた格好のまま、ケイツがポカンと口を開けた。「通り過ぎた」 「空中を走ってるんだから、そりゃ地面にいりゃ安全だろ? 小学生レベル」口の端を曲げて笑むスタン。「――けど、そううまくいくわけあるか」 「へ?」  ケイツが言うより早く、スタンは再びケイツの腰のベルトを掴んで走り出していた。道を完全に無視して、山林の方角にある塀をのびるやつでたたき壊し、家をぶちぬき、 「ぎゃああああああああぁあああああぁああ」  ケイツの再三にわたる悲鳴も完全に無視して、ひたすらに走った。とにかく目の前のものに、彼は長剣モードののびるやつ一本で切り込み、切り込むと言うよりは吹き飛ばし、ものが砕け散る音と木くずとよく分からないゴミが飛び散る。感じるもの全てがぐしゃぐしゃになりながら、ケイツは必死で踏ん張りようのない宙ぶらりんの身体を丸めた。  またちらりとスタンの表情が見えたが、やはり、この上なく楽しそうに――笑っていて、ケイツは走っている時の自分の飼っている犬のことを思い出した。空き地でこっそり綱を離してやると、こんな感じで嬉しそうに走り回ったな、と思った。  やがて、背後から、あの波の音がうなるように響いて、すぐ真後ろにまで水か迫っているのがケイツには聞こえた。スタンは息一つ切らさずに、めまぐるしい早さで建物に穴を開け、道に出、塀を壊して電柱をなぎ倒していく。揺れる身体で何とか振り返ると、水鉄砲を千倍単位で太くしたような強烈な水の噴射が建物の上から、地面の下から、真横から何重にも間一髪で突き出されているのが見え、すぐに振り返るのを止めた。  そして、文字通り音の洪水にもかかわらず、あのサイレンのような音と、きしむ音が段々大きく、はっきりと聞こえてくるのがわかってきた。 「あー、やっぱり逃げるのはめんどい! やめやめ!」そう叫ぶと、スタンは突き破って脱出した少し広めの民家の庭で、のびるやつを振り下ろして一気に飛び上がった。それを待っていたかのように、飛び出したばかりの民家に開いた穴から、二人めがけてひときわ太く勢いをつけて水が噴き出し、一帯の地面に低く広がっていた巨大な水たまりの水を見る見るうちに吸い取っていきながら、先端が分岐していき、まるで手のように姿を変えた。大きさを比べると、二人がアリのようだ。 「続きましてもでかすぎだよ! 今度こそ駄目だあっ!」歯を食いしばりながら今にも目をつぶりそうなケイツをよそに、スタンはのびるやつのスイッチを切って鞭モードにすると、それを火花でバチバチ言わせながら、 「――無駄に、スケールのでかい抵抗」  それをぶるんぶるんと振り回し、ちぎれるくらい光の長さを伸ばすと、息つく間もなく突きあがってくる「手」に向かって、落下しながら、 「――してんじゃあねぇよお」  縦一文字に振り下ろした。そして、ぱっくりと開かれた「手」の切れ目に飛び込んで、切れ目ごと二人を潰そうと全方向から押し寄せる水に、 「――おおおおおおおっッ!!」  力づくでのびるやつを振り回した。振り回して、振り回し続けた。「手」はのびるやつに幾度にも渡って大きく切り刻まれ、分裂し、ばらばらになり続けた。  宙づりのケイツは、荒れ狂う水中で、歪んだ呼吸と視界を、スタンの姿と青い光の軌跡と爆音と水の焼ける音に埋め尽くされながら、それこそこれは夢みたいだとぼんやり思いながら、それでもはっきりあの二つの音に耳を澄ませていた。 (……この音……?)  やがて、鈍い衝撃があって、硬い着地の感触がした。スタンとケイツが空を見上げると、サッカーボール大にまで小さくなった無数の水のかけらが周囲に大げさな音を立てて降り注いだ。スタンはにやっと笑い、ケイツは迫力に心奪われて中途半端な顔のまま、いくつかの巨大な水滴にあっけなく当たってしまい顔をしかめた。  顔をぶるぶる振って水を払うと、スタンが、 「これだけ露骨に他人に夢をいじくられれば、精神的にこたえるはずだ。しばらく水攻めはないだろ」 「へえ……」ケイツはまだぼうっとしたままで頷いた。「……すごいね、スタン」 「そりゃどーも」彼はそれを、少し複雑な表情で見ていたが、すぐに自信満々なふうに戻って、またケイツをベルトで持ち上げた。 「わあっ、もういいってそれ!」じたばたして抵抗するケイツ。 「なんだよ、ちゃんと俺についてこれんのか?」 「小学生じゃないんだから! 背は……まあ、素晴らしい具合で低いけど?」  すると、いきなりスタンはベルトを掴んでいた手を離して、ケイツは地面に情けなく落ちた。 「ひごっ!」彼は変な声を上げて、よろよろ立ち上がると、「何するんだよ! ……っていうか、ひごっ、はおかしいよ絶対」また自分につっこんだ。 「早く来いよ、もうすぐ森のそばに出る!」  その間に、スタンは一人で、また進行方向のものを片っ端から壊しながら走っていた。ケイツはあわてて追いかける。  踏む度メキメキがちゃがちゃと音を立てるスタンの破壊の爪痕を、スキップのできない人のようにぎこちなくケイツが走っていくと、スタンが道に出たところで立ち止まっていた。追いついてみると、もう目の前には住宅はなく、前方の左側を鬱蒼とした気味悪い森が、右半分で少し大きめの沼が、波紋すら広げずに大分明るくなってきた夜明け空をきれいに映していた。沼沿いに向こうまで住宅街が広がっている。  そして、沼の端、二人の視界のど真ん中に、小さな白い鳥居が立っていて、そこから伸びた赤い木の橋の向こうに、古く色あせた小さな社が、水面に浮かぶように建てられていた。大きさこそ昔のタバコ屋ほどだが、屋根は荘厳な作りで風格がある。格子の向こうから、人影と、ちらちら揺れる暖かな光がこぼれて見えていた。 「炎だ」スタンが言った。 「炎?」ケイツが聞き返す。 「ああ。今まで家の明かりとか街路灯の明かりは見たけれど、ありゃあ全部電気だ。でもここだけ、炎で明るくしてる」 「神社っぽいから、普通そうなんじゃないの? まあ、こんなお賽銭箱の無い神社自体行ったことないけど……」 「ここに来るまで、物は散々壊したけど、人っ子一人出てこなかった。こいつが、街のと外っ面だけはとりあえず作れても、それ以上は『想像力』が追いつかなくて中途半端にほったらかしてた証拠だ。けれどどうだ、この神社、リアリティがあるだろ? おまけに中に人がいる――」 「そうか!」ケイツはぱっと霧が晴れたように言った。「あれが『患者さん』か!」 「ああ。多分な。――じゃあ、そーゆーことで」 「で?」  スタンは答える前に、鳥居を通って橋を駆けて、社の前でジャンプすると、屋根と壁の境めがけて片手ののびるやつを横一文字になぎ払った。 「これも壊す!」  光の鞭は社の奥まで届き、屋根を刈り取るように、ずたずたな切断面と木が無理矢理へし折られる悲痛な音を残して、壁の反対側へ通り抜けていき、そして文字通り、屋根がずれ落ちると、大きな水しぶきを上げて沼へ沈んだ。前方へ倒れる格子。消える炎の明かり。 「夢だけど――やっぱりばちあたりめ!」  言ってから、ケイツは、サイレンときしみの音がこの社から発せられているのに気づいた。そして、この社からはもう一つ音が出ていることにも。祈りの声だった。低い、女の声。小さく早く同じ言葉をひたすら何度も何度も呟き続けている。 「奴ら一家がみんな死ね奴ら一家がみんな死ね奴ら一家がみんな死ね奴ら一家が」  ケイツが、言葉の意味をはっきりと分かって、スタンに少し感じたものとは比較にならないほどの恐怖を感じて額に汗をにじませたのと同時に、その声が止んだ。ゆっくりと、声の主は正座したままで二人の方へ向きを正す。患者の女、マニラだった。髪型や、やつれた様子は同じだったが、どこにでもいる主婦のように、エプロン姿をしている。憎悪のこもった、鋭くて冷たくて熱い視線で、二人を突き刺した。 「……あなた達は、誰? そして、何故ここにいるの?」  感情の押し殺された、ただし決して優しくない声で、ゆっくり彼女は言った。  橋の真ん中まで歩いてきていたケイツが、緊張を隠せないうわずった声で、 「あなたが、『患者さ」 「初めまして、人殺し」  言いかけていたのを、彼女の目の前で、スタンが吐き捨てるような言葉で遮った。  女の目が、彼女を悠々と見下すスタンに殺気を帯びて向けられる。 「ちょっと、スタン、そんな……」  戸惑うケイツをよそに、スタンは悪びれた様子も見せずにやっと笑うと、続けた。 「俺は――あんたを夢から引きずり出すためにここへ来たんだ、――『人殺し』」       * 「『夢から引きずり出す』?」マニラはふっ、と鼻で笑った。目はやはり笑っていない。「あなた、一体何のことを言っているの? 私が夢を見ている、とでも?」 「ああ、その通りだ。よく分かってるじゃん」足下に転がっている、折れた木の切れ端を池へ蹴飛ばしてスタンが言う。 「……馬鹿なことを言わないで頂戴。どういうつもりでこんな事をしているのか分からないけれど、ここは夢なんかじゃないわ、これ以上私の邪魔をしないで」 「ふーん、あんた、自分が正気だと思ってるんだ?」 「私はどこもおかしくない」 「ほほーう、自覚できない、と……」小馬鹿にするようにスタンは何度も頷いた。そして、のびるやつの片方を、真っ直ぐ伸ばして彼女へ向けた。「俺たちがこっちに向かってることが分かってて、追い出そうとしながら、自分はこんな趣味の悪い箱にこもって病気みてぇにネチネチと誰か呪ってるようなヤツが、正気ってことだな?」  すると途端に、屋根が吹き飛んで吹き消されたはずの、祭壇に並んだろうそくが、一斉に火を灯した。由緒不明のきしみが耳に痛いほど届いて、ケイツの目に見える物の色がおかしくなってきた。空はステンドグラスのようにひび割れて多彩な色に分かれ、池の色は虹色に怪しく煌めき、向こうの木々は黒く染まって、音を立ててくねくねと勝手にねじれ始めた。驚いて辺りをしきりに見回すケイツをよそに、 「あなたには、私のことなんか、何も分からないくせに」  怒りのこもった震えた声で言うマニラを、満足そうにスタンは見下ろして、 「――イっちゃってるヤツのことなんか、分かるわけねぇじゃん」  彼女の目がかっと見開くのと同時に、スタンが素早く後ろへ飛び退いた。  間一髪後で、彼の居たところに、ピンクと黄緑のまだら模様の、木の肌をした太い触手のような物が落下してきて、気味悪くうごめきながら絡み合った。社の角の柱の折れたところが変形して伸びてきている。 「ば、ばけものおっ」ケイツが狼狽して後ずさる。  スタンを逃がしたと気づくと、マニラは憎々しそうに歯を噛んで、二本の触手は勢いよく、ケイツのところまで引き下がった彼めがけて飛び出してくる。スタンははじき飛ばさんばかりのそれを、引き締めたままののびるやつでそれぞれ受け止めた。足を踏ん張って、ぎりぎり歯を食いしばるが、触手は器用にのびるやつに巻き付き、スタンの手元へ届こうとしていた。すると、彼はのびるやつの光の刃をぶつけあった。激しいスパークが起こり、真っ白な火花が粉のように飛び散って、触手が激しく小刻みにけいれんする。  のびるやつから触手を振り払うと、触手の上をいくつかの人型をした影が駆けてくる。触手は力無く左右に倒れ、橋の欄干を崩して垂れ下がり、人間大の青く塗られたわら人形達がスタンめがけて、包丁を手にしながら襲いかかってきた。その映像に向けて、緩めたのびるやつを左右から一網打尽に振り払うが、姿も切れた気配ももうなく、彼は舌打ちしながら両手ののびるやつを腰に戻す。そして真横のケイツを足蹴にすると、しゃがんでくるんと後転し、わら人形が刹那空中から一斉に包丁を振り下ろし着地したのから抜け出した。ケイツは声もだせずに池に真っ逆さまに落ちる。   すぐにスタンは立ち上がり、棒を持って構えると、じりじりと群れになって近づくわら人形達と間合いを取った。五体。 「五体?」スタンは自分で言って、小さく笑った。「五体も出しちゃってるぜ」  マニラはにらんだまま、口元を歪ませた。「こんな調子じゃ、私に届かないわよ」 「ふふーん」スタンは挑発するように鼻で言った。そしてがらっと鬼気迫る表情に変わって、「もうだめだああああああああああああ!」と吠えた。そして、そのまま暫時動かない。意図不明なわずかな沈黙に戸惑う相手をみとめると、すぐさま彼は飛び出してわら人形達の懐に入り、一本のびるやつを抜くと、ようやく動き出した彼らの脇腹めがけて火花混じりのそれを一気に振った。二体の腹が焦げて切れ、無造作に崩れる。片腹を焦がした一体ともう一体が、揃った動きでスタンの首元に刃を振るのを、彼は顔をそっちへ向けると同時にのびるやつで受け止めて立ち上がると、それを払った勢いで身体をねじって二体の頭部に蹴りを入れた。そのまま振り向き、最後の一体が、背後から胴めがけて包丁を突き出してきた腕を、それを見ないで焼き切り落とす。先ほどの二体が揃って池へ落ちて、少しずつ沈んでいった。  ケイツは意外と浅かった橋の反対側の水中で、赤い水にめをしばたかせながら、はっきりとそれを見ていて、頭の中が真っ白になってしまい、本当に口を開けたままポカンと立っていた。 「接近戦は、瞬間的な判断で身体を動かすんだよ、しかも集中してな」顔をこわばらせるマニラの元へ悠々と歩きながら、スタンは言った。「人間が脳の妄想でバラバラにそんな処理できるのは、手の数が限界だ、覚えておいたら役に立つかもしれないぜ?」そして、今度は彼女の首元にのびるやつを突きつけた。 「クリスタルは、どこだ?」  マニラは、一瞬はっとして、スタンの方を見たが、すぐにぷっ、と吹き出すと、そのうち大声を上げてけたけたと笑い出した。 「何がおかしい?」スタンが眉をひそめると、彼女は笑ったまま、 「……だって、おかしいんだもの、あなたのことが……。『クリスタル』って、何の事かしら?」 「とぼけんなよ」 「思い出したわ、あなたの服。……そう『スタナー』ね、そうか、今は息子が継いだとは聞いたけど、まさかあなたみたいな、ただの乱暴な子だと思わなかったわ。あなたのお父さんは、患者に嫌な思いさせずに病気をあっという間に取り除く天才だって話だったけどねえ?」 「……」 「そして私は白昼夢を見ている? なるほど、それでも良いわよ? そういうことにしましょうか。その方が、私はとても幸せかもしれないからね……、このままずっと、ここでこうしていられるのなら。クリスタルなんか、あなたが勝手に探せば良いんじゃない? お父さんの力を受け継いでいるはずの、あなたの力で」 「……」ぐっと口を結んでから、スタンは、「俺はあいにく、『親父じゃない』んでね」ため息混じりに答えた。「もう一度聞く、クリスタルはどこだ」 「まだわからないの?」蔑みのまなざしでマニラは言った。「クリスタルよりも、お友達の心配をしたら良いんじゃない、って言ってるのよ?」  叫び声がした。スタンははっとして、後ろを振り返る。  死んだように動かずにいた社の触手が、また活発に動き出して池の中へ入り込んでいた。そして、水中で立っていたケイツの身体にまとわりついて、絡まり合ってぎしぎしと締め上げながら、木ぐらいの高さにまで伸びていた。 「ケイツ!」 「ス、スタ……」苦悶の表情を浮かべながら、ケイツは声を絞り出す。「こ……これは、どうせ夢、だからさ、おれの、……ことは、ほっとい……がああっ、ほっといて………っ」 「その武器をどけなさい」マニラが低い声で命令した。「私のことは放っておいて。でないと、あの子を潰す」 「……くそっ」顔をしかめるスタン。 「スタ………だああああっ!」ますます締め付けられ、身体の痛みに耐えかねてぶんぶん首を振るケイツ。 「ほら! どけなさい!」  スタンは、苦い顔をして、彼女の首からのびるやつを離し、一歩ずつ後ろへ引いた。 「……スタン……」  その時、きしみの音がぷつりと消え、かわりに割れんばかりの歪んだサイレンが響き渡った。女の表情がさっと消えて、何かにとりつかれたように、 「時間だわ」小さく呟いた。「――ああ、どうして昨日タマゴを買い忘れちゃったんだろう。ミチルがふくれて帰って来ちゃうわね。多分コンビニなら、今の時間でも空いてるなあ、そうだ、帰る前に……」そして、あさっての方向を見ながらゆっくり立ち上がる。「あいつらを、殺しておかなくちゃね」  その隙に、スタンは彼女に背を向けて駆けだし、ケイツを締めていく触手の絡まりへ橋から飛ぶと、のびるやつを緩めて根本を一気に断ち切った。ただの気味悪い塊になって触手はゆっくりほどけて、ケイツもろとも崩れる。池の中に入って、スタンは触手の中から彼を引きずり出すと、肩で担いで池の畔の鳥居のあたりに歩いていった。 「ケイツ、大丈夫か?」真剣な顔でスタンが聞く。 「大丈夫だよ、自分で歩けるって」肩で息をしながらケイツは答えた。「それより、あの人が」  社の方では、何もない池の上に、脈絡無く小型の紫色の車が浮いていて、マニラも水面に触れることなく、そこへ向けて空中を歩いていた。そして、彼女はその車に乗ると、エンジンをかけて、水面を池の反対側の住宅街へ向けて走らせ始めた。 「また追いかければいい」それを見ながらスタンが言った。「それに、探すのはそんなに難しくないね」 「なんで?」 「あのサイレン、音程は狂ってるけれど、消防車のだ。あれに反応してやつは出かけた。アポロさんの話だと、人殺しの原因は、自分の旦那と子どもが火事で焼け死んだことだろ? サイレンはそれに関係して出てきたはずだ。多分、そのうちどこかから火の手が上がるから、煙が見えてくるのを待てばいい。ヤツはそこにいる。普通の夢と大して変わらないさ、結局は夢ん中で踊ってるだけなんだよ」 「……」スタンから離れて、ケイツはその場に座り込んだ。「一つ、質問です先生」 「なに」 「どうして、おれを先に……? 別に何かあっても、ただ放出されるだけだから大丈夫って、言ったの、スタンじゃないか」  のびるやつのボタンを押したり離したりして、心地を確かめながらスタンが言った。 「悪い夢を見たことがあるか」 「え? ……そりゃあ、あるけど」 「じゃあ、あのままおまえがぐしゃぐしゃにされてたら、どう目が覚めるかくらい分かるだろ」 「すっごい、おっかないだろうね」 「他人の精神に入り込むのは、自分の心に相当の負担をかけるもんだ。放出のされ方によっちゃあ、かなりダメージが来る。悪夢の何倍にもね。白昼夢破壊師になるんなら、本当に人の夢のなかにいることを好きにならなきゃならない。もしおまえに、今日のことで少しでもトラウマっていうか、そういうのができちまったら、それが心の中じゃあ露骨に出ちまうから、まともな破壊師にはなれねぇだろうな。  俺は、自分の心を隠れ蓑に甘ったれるやつの、白昼夢をぶっ壊しに来たんだ。おまえの『夢』を壊すんじゃなくてね。それに――」 「それに?」  池の方を見たまま、スタンは続けた。 「――仕事だからって、友達を見殺しにするやつには、まだ俺はなりたくないね。現実だろーが、夢だろうが」  それを聞いて、ケイツの顔がぱっと明るくなる。 「スタン……」  彼のいた方を向くと、そこにはもう姿がなく、さらに、腰のあたりがぐいっと引っ張られてからだが持ち上がった。 「煙が見えた。行くぞ」 「だからその小学校低学年並みの扱い止めろって!」  再びからだを必死にばたばたさせて抗議するケイツ。       *  狂ったサイレンが、もうずっと大音響で鳴り続けている。  カラン、と玄関の踏み石に、血の付いた包丁と、黄色い100円ライターが落ちた。  ウェーブのかかった長い髪の女性が、どんどん血のあふれてくる胸を押さえながら、マニラの前で倒れている。そして、うっすら微笑むマニラの瞳には、2階建ての白い家が、一階の壁をぐるりと炎で染めている光景が映っていた。彼女の横には、真っ黒いポリタンクが3つほど置かれていた。それをそのままにして、マニラはその家をあとにすると、その隣の水色の家、自分の夫と、自分と、自分の息子の名前の書かれたプレートがある塀の入り口に立った。変わった様子のない自分の家に満足そうに頷くと、玄関のドアが開いて、小さな男の子が少しおぼつかない足取りで彼女のもとへ走ってきた。男の子はそのまま足に抱きつく。 「ねえ、ママ、ママ」男の子ははしゃいでいた。「大変だ、お隣のおうちが、ブリアンちゃんちが、すっごくすっごく燃えてるよ!」  マニラは男の子を優しく引き離すと、しゃがんで、「大丈夫よ。これからブリアンちゃんちは、急なことがあって、遠くへ、すっごく遠いところへお引っ越しすることにしたんだって。そのためにはおうちを燃やさなきゃいけないの。だから心配ないわ……」 「えー、お引っ越ししちゃうの! どうしてどうして?」心底驚いたような男の子。「ブリアンちゃんと、もう遊べないの?」 「そんなことはないわ。きっと時々、こっちに戻ってきて、ミチルと一緒に遊んでくれるよ。火が消えたら、さようならのあいさつしに行きましょうね……」 「うん!」男の子はにこっと頷いた。 「ほら、おうちへ戻るわよ。ママちゃんとタマゴ買ってきたからね。朝の目玉焼きでしょ、お弁当にも、たくさん玉子焼きを……」  二人が玄関へ戻ろうとすると、背の高い壮年の男性がパジャマ姿で開きっぱなしの玄関から出てきた。 「おい、隣、どうしたんだ?」物珍しげに、ごうごうと燃えさかって二階の壁まで炎が達している白い家を眺めながら、男が聞いた。 「たいしたことないわ、あなた」苦笑するマニラ。「まるまる一軒焼けて、みんな黒こげになっちゃうだけ」 「ああ、なんだ、そうかあ」納得したように顔を明るくして、男性は塀の脇のポストから新聞を取り出した。「見に来て損したよ、はははっ。さあ、中に入ろう。朝ご飯朝ご飯」 「そうね……」  男性に肩を抱かれながら、男の子を連れてマニラは玄関へ歩いていく。「そうそう、明後日さあ、結婚記念日だから……」  その時、 「――待てよ」  背後で、誰のものか分かる、だが彼女にとってはかき消したい声が響いた。男の子と男性は玄関を向いたままで、マニラだけが冷たい表情に変わって振り向いた。  塀の向こうに、スタンとケイツが立っていた。 「吐き気のする自作自演はもうやめとけ」スタンが言い放った。両手に握ったのびるやつには絶えず火花が走っている。 「……とてもいま、幸せな気持ちなのに、どうして邪魔をするの」  言うと、彼女は鬼のように目を開いた。「私たちに近寄らないで!」  すると、少年二人のいる路地の左右から、猛スピードで赤ランプを回しながら消防車が挟むようにして突っ込んできた。スタンはケイツを掴むと、のびるやつを床にたたきつけて飛び上がった。あっけなく二台は派手な音を立てて正面衝突する。それから彼はマニラの家の庭に着地して、ケイツをそこに放り出すのと同時にマニラの方へ駆けだした。「『私たち』? 都合の良いことをほざくな!」そして、彼女の、  足下で背を向けて立っている男の子を両断した。 「――!」顔色を失う女。 「なっ!?」ケイツも面食らう。 「――てめぇ以外は、生きてさえいねー」  男の子は、何も言わないで、物体のように無造作にぱっくりと縦に割れて、ごろんと倒れた。切り口はかまぼこのように真っ白だ。素早くマニラの後ろへ回り込んだスタンは、彼女の隣に立つ男性を突き上げるように斜めに、のびるやつで切り裂く。 「やめてえっ!」悲痛に叫ぶ女。  だが、叫びもむなしく、男性の身体は切れ目から上がすーっとずれて、彼女にもたれかかるようにして無惨に崩れ落ちた。切り口はやはり白かった。 「てめぇ勝手なただの小道具なんだよ!」  そして直後、ガスバーナーに添加するように一瞬で、マニラの家が業火に包まれた。  いつの間にか隣の家は元通りになっていて、一台の消防車が家の前の道で、大勢の野次馬に囲まれながら、あの音程の壊れたサイレンを鳴らしていた。  ホースを持って、銀色装備の消防士達が走ってくる。男の子と男性の張りぼては消えていた。 「――放水!」  消防士達が声と張り上げて、家全体を喰らうように燃えさかる炎へ向け、ホースから頼りない水を拭きだす。  呆然としながら、おぼつかない足取りで、ふらふらとマニラが家に近づこうとするのを、消防士の一人が腕を掴んで引き留めた。 「奥さん! 中に入っちゃ駄目だ! もう駄目だよ!」 「なかに……こどもと……おっとが……」震える声が、開いたままの口から漏れる。  その様子を庭の片隅で、スタンは腕を組んで立って、ケイツは膝をついたまま事態が飲み込めない風で見ていた。 「スタン、これは……」 「押さえ込んでいた記憶を、一気によみがえらせた。これが――『現実』だ」 「お願いです! まだ中に……! 助けて……」消防隊員に、すがるように女が言う。 「助けてやりたいけれども、これじゃあ近寄れないんだよ! まずは火を消すから、奥さんは気を確かにしていなきゃ!」彼女を押さえ込むようにして、隊員が諭した。 「でも、ミチルがあっ、ミチル! あなた! 出てきてよおっ!」  その時、動揺する彼女の動きが、突然凍り付いた。隣の家の少し高い塀の向こうで、ニコニコしながらどこかを見ている隣の家の女性の、さっき殺したはずの女の、そのまさに顔の方を彼女は向いて、一瞬だけ全く動かなくなった。そして、わなわな身体を震わせながら、火の勢いの止まない自分の家を見る。 「まさか……まさか……! ミチルうっ! あなたぁっ!」  身を裂かれたようなマニラの叫び声に、ケイツは思わず顔を背けて目をつむった。スタンは、どうでも良いドラマでも見ているように、何の感慨もない表情で黙って鼻息をついた。       *  炎がようやく消されたと同時に、すっ、と消防隊や野次馬達の映像が薄れて、消えた。サイレンの音も聞こえなくなる。かえって耳鳴りのするような静寂の中で、マニラの家は湯気と煙を上げながら、真っ黒な細い骨組みだけになった。  憔悴しきった様子で、ぼんやりとそれを見上げている彼女の元へ、スタンが一歩一歩近づいていった。 「こんな理由で、人殺しなんかできるもんなんだ」皮肉っぽく言って、笑う。「随分ひどい逆恨みじゃん?」  涙で真っ赤にはらした感情あふれる目で、マニラはスタンをぎろっと睨んだ。 「……これだけで、そんなこと、するはずないわ。私は、とにかくあの後、生きているのが嫌になって、でも死ぬのも怖くてできなくて、お酒を飲んで毎日、やりすごしていった。そのうちそれが、偶然手に入った大麻になって。それが止められなくなって、ボロボロになったわ……。お金も底をついて、すごく自分が惨めだった。  そんな時、あの女と街ですれ違ったの。彼女、その後友達かなんかと私の話をし始めて……笑いながら……、私のことを自業自得だ、って言ったわ。そして、あっさりとこう続けた。『私、あの奥さんが出かけた時あたりから煙が上がってたの、見たんだけれどね、多分誰かが通報してくれてると思ってね』って……! あの女よ。あいつがミチルも、主人も見殺しに、殺した! だから私、あの女にも同じ気持ちを味わわせて、旦那も娘も殺してやって、それからあいつも殺すつもりだった。捕まってしまったけれど、今でも気持ちは変わってなんかないわ。  あなたみたいな子どもになんか、分からないでしょうね、愛する人を二人も奪って、私を奈落の底へ突き落として、それにほくそ笑んでいる女を見つけた時の、あのすべてががらがらと崩れ落ちて、代わりに憎しみが、爆発していっぱいになる瞬間が……」 「分かるわけないなあ、人殺しの気持ちなんか」 「ええ、分かってくれなくて結構よ」スタンを睨んだまま、女は薄笑いを浮かべた。「そして放っておいて頂戴。ずっとこの夢の中にいたいの。ここなら、目覚めてしまったらもう二度と叶わない幸せを、ずっとずっとかなえてくれる……」 「甘えてんじゃねーよ」 「甘えてる? ……ふふふっ、それで結構だわ。生きていることに、もう何も意味無いもの。みんな取り上げられてしまった。家族も、嬉しいことも、楽しいことも、復讐することさえ、現実じゃ許してくれなくなった。甘えさせてよ、私を――」  スタンは、ため息をつくと、腰の両脇からのびるやつを抜いて、彼女の目の前にしゃがみ込んだ。そして冷ややかに笑んで、 「ばーか」 「何とでも言ったらいいわ、どうせ私は、世間からそういう風に言わ」 「ばーか」 「そうね、でも、私は殺さずにいられなかった。それしかか」 「ばーか」 「ええ、バカよ。こんな事をしたって、喜ぶ人は誰も」 「ばーか」 「何が言いたいの、あな」 「ばーか」  次第に、マニラの表情がこわばっていく。彼はそれを気にすることなく、平然と繰り返していった。 「……確かに私は、罪のな」 「ばーかばーか」 「けれど、あの女は、人間として最」 「ばーか」 「あなた、本当に子どもね。延々とそう言ってどう」 「ばーかばーかばーかばーか」 「……」 「ばーかばーかばーか」 「……あなたに言われたく」 「ばーかばーかばーかばーか、ばーかばーか」 「スタン……」彼の行動に戸惑うケイツ。「なんでそんなこと言ってんだよ」 「あなたに」マニラは、次第に声とからだを震わせ始めた。「わかってたまるもんですか」 「ばーかばーかばーかばーか、ばーかばーかばーかばーかばーか」からかうように、大げさにいたずらっぽくたたみかけるスタン。 「私は、私は……!」 「ばーかばーか、ばーかばーかばーかばーかばーかばーかああ!」 「――わたしわあぁっ!」  鬼のような形相で女は叫び、思いもよらない早さで飛び上がるようにスタンへ体当たりした。その両手には、包丁が握られ、それがスタンの胸元へ突き刺さっていた。彼は、にやっと笑ったまま何も言わない。女はそのまま包丁に力を込めて、スタンを前へ押し倒した。一瞬間があって、唖然としていたケイツが、 「スタン!」彼のもとへ駆け出す。  女は倒れたスタンの脇に跪いて、一心不乱に包丁で彼のからだを幾度も刺した。「わたしはぁっ、ちがう、バカじゃないっ! バカじゃないいいいっッ!」その度、彼のからだがビクッ、とけいれんする。 「や、やめてください!」彼女の腕を掴んで必死にケイツはスタンから包丁を逸らせようとするが、彼の想像以上に力が強く、あえなく彼女は止まらない。「やめろ! やめないとスタンが!」 「バカじゃない、バカじゃない、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、みんなみんなみんなみんなみんなみんな殺してやる殺してやる!!」彼女の戦慄するような表情の中には、狂喜の様子さえ感じられ、ケイツは頭の中から血の気が引いた。  その時、マニラの動きがぴたっと止まった。彼女の視線が釘付けになった先を追って、ケイツも自分の目を疑った。  そこには、あるはずのスタンの顔がなかった。彼女が刃を突き立てていたからだも、ベルトづくしのスタンの衣装が上下、ペシャンコになって残っているだけだ。二人はそれぞれ辺りを見回す。すると、真後ろの空中から、 「思い知ったか、てめぇのまだ凝りねー自尊心」挑発するようなスタンの声。  ケイツが振り返ると、見慣れた普段着、Tシャツにナイロンのパンツ姿のスタンが目前に飛び降りてきた。 「とっくにわかってんだろ? ここにいたって、何にも満たされやしねぇ。そして、あんたも自分のことを分かってないぜ。家族を殺されたのは誰のせいかしらねぇが、あんたが堕落したのは誰のせいでもねーよ、殺さずにいられなかった、なんていう『運命のせい』でもない。選択したのは、すべてあんただ。そこから目をそらして、ここに逃げて自分だけ正当化しやがって――」  そして、地面を蹴って飛び出すと、マニラがそれに反応して逃げる前に、一気に彼女へ近づいて、逆手に握ったのびるやつの一本を、彼女の腹へ勢いをつけて振り下ろした。のびるやつの光の刃はそのからだを貫通し、地面にまで突き刺さる。恐怖と言葉を超える衝撃に、からだをこわばらせるマニラの耳元で、スタンがそっと囁いた。 「――本当にあんた、クズだな」 「……!!」  彼女は愕然とした表情で、虚空にかっと目を見開くと、力無くその場に身を崩す。  その時視界に、どこかから日光のようなあたたかい光が差し込んできた。スタンはしめた、とばかりに彼女からのびるやつを抜いて、鞭型に切り替えたそれを地面に打ち付けて高く跳ねる。  辺り一帯を見回すと、あの池の社のあった部分に、丁度同じくらいの大きさの、巨大な結晶のようなものが低く浮かんでいて、眩しいくらいに輝いていた。その表面の大部分を、黒くてつやのある物体が覆っていて、光の多くを遮っている。彼の目がそれをとらえると、会心の笑みが浮かんだ。何度かのびるやつを地面に振り下ろし、豪快に街並みを吹き飛ばして、からだを大きくバウンドさせながら、あっという間に結晶の上空まで飛来すると、 「さあ、こんな夢、とっとと」  橋のたもとに着地して、そのまま走り出し、巨大な結晶めがけて両手にのびるやつをかざし飛び込む。スパークさせながら強烈に二本の鞭で結晶を殴り、その反動で舞い上がり、結晶の真上を飛び越しながら、からだを一回転させ、落下際に再度のびるやつを喰らわせて、 「ぶっとばしちまえよ!」  池の水面の上に音もなく立った。左右ののびるやつの柄をつなぎ、もとの棒に戻した瞬間、スタンの背後でがらがらと軽快な音を立てて、結晶を覆っていた物体だけがはがれて、周囲へこぼれ落ちた。  その瞬間、一気にクリスタルから閃光が走り、辺り一帯が突風とともに真っ白になった。それをかろうじて見るスタンの細まった視界に、うっすらと黒く映る家々の輪郭や、山や、電線の影が、風と一緒にちぎれるように吹き飛ばされていくのが映る。風が立てる轟音がしばらくとどろき、やがて、少しずつ激流は衰えていった。  眩しさが消え失せると、後には真っ白な世界が残った。クリスタルは透明一色になり、荒く形作られた無数の面のいくつかがきらきら優しく照っている。白い床の上で、さっきまで付着していた黒いものが散らばっていて、ゆっくりと吸収されるように地面の中へ沈んでいった。その中で、一つだけ、沈まないで、しかもぴくぴくと生物のように動いていることにスタンは気づいた。それに少しずつ歩み寄る。  黒いもののかけらは、ゼリーでできているようななまめかしい動きで、ゆっくりとクリスタルの方角へ近寄っていく。何か音を発していたので、スタンは首をかしげながら耳を傾けた。黒いものは、延々と、 「機能ほぼ損失のため、修復処理か保全処理かの選択のための仮想試行中、機能ほぼ損失のため、修復処理か保全処理かの選択のための仮想試行中、……」と繰り返した。 「なんだ……これ」スタンは眉をひそめながら、それを足で踏みつぶした。音はしなくなって、ぐちゃぐちゃになったそれも地面へ吸い込まれていった。  気配がしたので、振り返ると、進まない表情をしながらケイツが歩いてきた。さらに向こうには、倒れたまま動かないマニラが倒れている。 「スタン……、あの人は、あのまんまでいいの」 「ん、ああ。やつの精神を出られないようにしてたものが無くなったから、これくらいの衝撃ならそのうち勝手に夢から覚めるだろう。晴れてスッキリ解決ってわけだ」 「そうか……」  俯いたまま、元気なく言うケイツを見て、スタンは一瞬表情を曇らせたが、すぐにもとの振る舞いに戻って、彼の肩をぽんぽん叩いた。 「何だよ、へこんじゃって。これくらいの仕事なんて、破壊師ならいくらでもあるぞ? 今からそんな調子じゃ――」 「おれ」ケイツがぼそっと言った。「スタンの弟子になるの、やめる」 「……」スタンは表情から笑顔を消して、静かに頷いた。「そうか」 「スタンが、先代、いや、おじさんと違ってるのは、分かってたつもりだった。でも、でも――」スタンの方を見るケイツは真顔だった。「スタンのやり方は、間違ってるよ。人の白昼夢を壊すのでも、もっと人を傷つけない、別のやり方があるだろ? なのに、スタンは、人の心を、もてあそんだあげくに、……『本当に壊してしまう』みたいじゃないか! 間違ってる、スタンは」  スタンは、段々感情をあらわにするケイツの非難を、黙って聞いていた。そして、スタンに背を向けて、ゆっくり歩きだすと、つとめて明るく言った。 「おまえの言うとおりだよ。俺は、親父みたいに『人のために人を助けている』んじゃない。『自分のために人を助けている』んだ。人の心の中を思いっきり壊してまわって、世の中じゃ同情の的になってる、夢遊病の奴らを問答無用でなじるのが気持ちいい、ただそれだけで白昼夢破壊師をやってる。……おまえ本当は、親父に診てもらったことがあるな? 事務所じゃないどこかで」  下を向いて黙っているケイツ。 「まあ、それはどうでもいいよ。どっちにしたって、おまえから見れば、最低の部類の破壊師だろうな……。悪かったよ」  でもな、とスタンは続けた。背中を向けたままだった。 「――俺はおまえに、やっぱり嘘はつけなかったんだ。でも楽しかったよ。ひとりぼっちじゃない、って感じが、なんかすげえ久しぶりでさ」  ケイツがはっとして顔を上げる。スタンは、少し寂しそうに笑って、こっちを振り向いていた。  彼の視界と意識は、そこからうっすらと、薄れていった。       *  ケイツが目を開けると、壁により掛かっていたアポロがおや、と声を上げた。 「終わったのかい?」言って、まだ目を閉じたままのマニラの脇へ動く。 「そう、みたいです」浮かない顔のままケイツは答えた。ちょっと長かったなあ、とアポロは腕時計を見ながら呟く。  もしかして、スタンは、本当は自分が夢の中まで来てくれたことがとても嬉しかったんじゃないだろうか、とケイツは思った。今まで、誰にも言えない仕事をスタン一人で背負って、ずっとやって来たのだ。しかも大きな肩書き付きで。勉強と一緒で、友達と一緒にやった方が、はかどる、というよりは、楽しい、心強い、のではないだろうか、と。  スタンの横顔を見ていると、ぱちっ、とその両眼が開いたので、あわてて目をそらして女の方を向いた。すると女の方も目を覚ましたので、またあわててアポロに視線を向けた。 「おっ、お目覚めだな」彼はマニラのわきにしゃがんで、彼女の顔をのぞき込んだ。「クレイツさん、僕が分かりますか? 覚えてますよね」  彼女は疲れた表情だったが、確かに頷いた。 「これから、警察病院へ向かいます。それで、あなたの状態をチェックした後、一日休養してもらって、それから拘置所で取り調べを行います。いいですね」  女はゆっくり、もう一度頷いた。  スタンは立ち上がると、伸びをして、リラックスしたような様子で彼女に笑いかける。「がんばってね、マニラさん」相変わらず小馬鹿にしているようにも見えた。  それに対し、きっ、と彼女はスタンに怒りの視線をぶつけると、煮えたぎるような声で、 「言葉……そっくり返すわ……」こう言った。「……本当にクズね、あなた」 「……へえ」しばらく無表情で彼女と目を合わせた後で、彼はふっ、と笑うと、軽い足取りでドアへ歩いていった。「ま、それでもいいけどね。……子どもは褒めた方が伸びるんじゃなかったっけ?」肩をすくめてそう話すと、ケイツと特に話をすることもなく、先に一人で部屋を後にした。 「あっ、スタン」彼が立ち上がって、後を追おうとすると、 「あー、ケイツ君」アポロが呼び止めた。「僕はこのままこの人と下の車に乗るから、ロレル刑事にそう伝えておいてくれるかい?」 「はっ、はい!」言って、今度こそ後を追おうとすると、 「……あなた、ケイツ君って言うの?」女性の方が今度は呼び止めた。びくっと立ち止まって、油が足りないみたいにおっかなびっくり振り返るケイツ。 「そ、そうだすが、ななな、なんのござしき、ございましょう」 「ごめんなさいね。怖いでしょう、私のことが」打って変わって、彼女は落ち着いた顔つきと声色だった。 「いいえ、め、べっそうもないです!」図星のケイツ。 「一つお願いがあるの」 「は、ははあ、お願いでございまするか」 「ええ、是非」マニラは微笑んで、「あの子――『スタナー』に、私の代わりにお礼を伝えてくれないかしら」  ケイツは耳を疑った。目を丸くして、信じられない、という風に彼女を見た。彼女は微笑みを浮かべたまま、一つ頷いた。目元に、うっすらと涙がにじんで、今にもこぼれそうだった。声を震わせながら、こう続ける。 「……助けてくれて、ありがとう、って、あなたに伝えて欲しいわ」 「……」  しばらく、彼は言葉が出なかったが、見る見るうちに晴れ晴れした顔つきになって、頷くと、威勢良く返事した。 「――伝えておきます!」       * 「ばーか」ダフネが呆れたように声を上げる。「そして人間的にクズね!」  皮肉を込めてそう言うと、仏頂面で事務所のソファに座って、テーブルに置かれたを麦茶入りのコップを見つめているスタンの背後を行ったり来たりした。 「ああ、かわいそうにケイツちゃん。いたいけでかわいらしー夢をこうやってスタンに木っ端微塵にされたのよ。夢を壊すつもりはないって、思いっきりやってるじゃない。どうしてあんたはこう、気配りってもんが足りないわけ? フローディ姉さんはそんな風に育ててないはずよ」 「黙っててよ、おばさん」むすっとしたままスタンが麦茶を一気に飲む。「ケイツをだましたくなかっただけだ」そして乱暴にコップを置いた。「あいつが持ってたのは、間違った夢なんだよ。それを見逃すなんて――」 「覚えときなさい、世の中には、ついていい嘘ってもんがあるの」反対側のソファに座って、ダフネは目をそらしているスタンをじっと見ながら、「それをうまく使って、みんなお互いを大事にしていくって事。本音ぶつけてりゃいいなんて、大間違いよ。わかった? たまには、『逃げなさい』。そして『目をつぶるの』。――それを覚えないと、破壊師としても、人間としても大人になるのは無理ね」 「分かった、分かったよ!」苦い顔をしてスタンは立ち上がると、「お望み通り、逃げたあと目をつぶってやるさ。――ばあや、昼寝するから六時に起こして!」忌々しそうにそう吐き捨て、事務所の奥のドアへ向かって歩きだした。 「若さん」窓のそばの観葉植物の手入れをしていたばあやがそれを、優しく呼び止める。 「なに」 「昼寝もいいですけれど、お友達は、きちんと下まで送ってあげなさいね」  にっこり咎めるばあやに、スタンは口を尖らせて、 「……わかってるよ」言うと、づかづかと事務所の入り口へ向かう。  途端に、いきなりその入り口のドアが思い切り開いて、ものすごい形相のケイツが現れたので、スタンが思わずぎょっとした。ばあやとダフネも驚いてそちらに目を向ける。 「ばあやさん!」切迫した表情で叫ぶケイツ。 「わたし? ……なんでしょう?」さすがに少し困惑するばあや。 「トイレはどこでしょうか! さっきジュース飲み過ぎました!」  少し沈黙が流れてから、ようやくばあやが、 「……奥の入り口を入って、すぐにあるドアですよ」と気圧された様子で言うと、ありがとうございます、と言いながら駆け足でケイツは事務所の奥へ消えていった。目を点にするスタンとは対照的に、ダフネには大うけだ。 「ふふ、はははは、ケイツちゃんったらもう最高、かわいすぎてうちに一台欲しい! トイレって、トイレかあ……いやいや……」  しばらくして、また勢いよく事務所の奥のドアが開いて、真剣な表情のケイツが出てきた。また三人の目が注がれる中、彼は真っ先にスタンの方を向いて、 「スタン!」クイズに答えるような引き締まった発音で呼びかけた。 「な、なんだよ」  面食らった顔のスタンに、ケイツははっきりと宣言した。 「――やっぱりおれ、おまえの弟子になる!」 「……え?」さらに面食らうスタン。 「?」意味が飲み込めていないダフネ。「意外と気分屋なの?」 「え、だって、おまえさあ、俺は間違ってるって」 「そう、スタンは間違ってるよ。でも、……マニラさんから、スタンに代わりにお礼を言っておいて欲しいって、言われたんだ。しかも、嬉しそうに、泣いて」 「……」スタンはケイツを見つめたまま黙っている。 「そこで気づいたんだよ。やっぱりスタンは『スタナー』で、みんなおまえのことを待ってるんだって。自分では戻ってくられないで苦しんでる人を、夢から引きずり出す、すごい才能がおまえにはきっとあるんだ。間違ってるのは、そう、『やり方』だけ……」そこまで言って、彼はスタンの前まで来ると、さっと右手を差し出した。 「だから、おれが弟子になって、おまえの『やり方』を壊してみせるんだ」  そして、そのまま頭を下げた。 「――お願いします! おれを弟子にしてください!」  ダフネはソファに座ったまま、お手上げ、という感じでばあやの方を向いた。 「38分前に弟子になって、その29分後に弟子をやめて、今また弟子になるって事?」そしてため息をつく。「ついてけないわ」 「ふふふふっ」ばあやは微笑みながら、片や頭を下げ、片やそれをキツネにつままれたように見ている少年二人を眺めていた。「それが子どもの力です」  スタンはただただケイツを見下ろしていたが、やっと、自信たっぷりの笑みを浮かべて、その右手を自分の右手で強く握った。顔を上げて顔をほころばせるケイツに、言った。 「やれるもんなら、やってみればいいさ」 【2nd.Cr! 逃がす者止める者蝕むもの】 前編  一面がウレタンのような柔らかいもので覆われた空間に、二人は間合いをとって向かい合っていた。バンドだらけの黒い仕事着に身を固めたスタンの背後には、果てしないアーチを描いて覆い被さる、堅そうなコンクリートのドーム壁がある。その天井はケイツの方へ続いていくが、果てが真っ白いものでぼやかされて見えない。 「ふーん」スタンはケイツをまじまじ見ながら鼻で笑って、「ま、いいんじゃないの?」 「だろーだろー?」彼はまんざらでもない様子でにやにやしている。「とにかく顔以外全身覆ってればいいって言うから、いろいろ考えたんだけど、こんな感じにしてみたさ。コンセプトは『メカニック』です師匠」 「初めて作ったにしちゃあ良くできてていいけどさ、それ」スタンの目の前の少年は、赤い長袖のシャツの上にデニムのオーバーオールをはき、白地に青のロゴが入った軍手をはめていた。「……ちびマ○オ?」 「いえーいヒトデ取って無敵モード……ってマ○オとか言うなマ○オとかあ! あと小さいのは気にしてないけど気にしてるんだ!」 「なんかテンション高いな、お前……。まあ、そんじゃ、次は武器だな」 「ブキ? ああ、道具?」何もないよ、という風に両手をぶらぶらさせる。「スタンみたいな大量殺戮兵器はいらないよ。おれは『穏和な《ピジョニィ》』白昼夢破壊師になるんだ。必要だったら、愛のビンタとかでいいだろ」 「何回も説明してるだろーが」呆れたようにスタンがため息をついた。「他人の精神の『本体』、つまり今の俺とか患者とかに、万一直接ケガさせられたらやばいんだって。軍手してたって、むやみにそれで殴るなんてまともな考えじゃない」 「うーん、でも、今更マシンガンとかは……」 「何で殺戮兵器にすんだよ。バットとか、鉄球とか、火炎放射器とか色々あるだろ」 「なんかそれも残酷じゃん。……あ、魔法とかは? 杖もって幻獣召喚」 「他人の夢でそんなばかでかいことするなんて、俺の武器より高度だぞ。いくら想像力がいると思ってんの? ていうかゲームじゃないからこれ」 「……えー、もっとこう、人を傷つけないような武器ないかなあ」 「そもそもそう言う考え方が矛盾してんだって」語気を荒くしてスタンが語り始める。「甘ったれてる奴らを傷つけないで助けようって言う考え方が。『強硬な《ホーキィ》』破壊師がどうして問題になるんだよ。目を覚まさせて欲しいと思ってんだよ、自分に甘えてて起きれないから。ならぶっ飛ばしてやれば良いんだ。望み通り痛めつけて、自分がどんなに腐ってたか思い知らしてやらなきゃい」  うなっていたケイツがパッと顔を上げて、「そうだ! あるよあるある平和的武器が!」 「俺の話……聞いてないだろ……」 「ごめん今重要局面だからっ。ええと、心を落ち着かせて……頭の中に……リアルにー、リアルにイメージするー……」彼はまぶたを閉じて、へその前で何か抱えるように手のひらを開いた。「そう、これを、にぎって……」すると、その手元にうっすらとおぼろげな赤いものが見え始め、目をつむったままケイツはそれを両手で握るように指をゆっくりと動かした。すると、そのあたりが細い棒状にはっきりする。そして全体像も。  目をゆっくり開いて、自分のが掴んでいるものを見て、よし、とケイツが呟く。  スタンはそれに向かって、「は?」と間抜けな声を出すと、ひざから座り込んで、 「ほほっ、お、おいおい、勘弁してくれ、ひひい」大爆笑し始めた。「――な、なんでピコピコハンマーなんだよ、バカ……」       * 「なにをっ。バカ呼ばわりして」ケイツは仰々しく、ピンクの長い柄に赤いジャバラのプラスチックハンマーを振り回した。「見よ、この友好的っぷり! これで殴ったら結構クるんだぜ? そしてそんなに痛くないし。ピジョニィなおれにぴったりでしょ」 「ゆ、友好的って言うか……」気を取り直してスタンが言う。「ただのバカだろ」 「ははん、二回もバカだって言ったな。そこまできたら、おまえに喰らわせてやろうか」ホームラン宣言のように、ケイツは彼へハンマーを向けた。「愛の、ピコピコハンマー」 「野郎の愛なんか絶対いらねぇ。ぜったい」皮肉っぽくスタンは笑うと、腰に差していた短い金属の棒を抜き、両手で二つに引き離して柔らかく垂れる光を伸ばした。ピン、とそれを伸ばして構えると、「……これありで、やってみるか?」 「武器なし夢の中無法地帯マッチ:対戦成績0勝8敗、雑魚キャラだってなめんなよ! こう見えても日々身長ともども進歩しとるんじゃあ!」 「それ何の口上だ?」 「でえいやああああああっ」  何となく中途半端に叫びながら、一直線に駆け出すケイツの進路へ向け、スタンが左右の光の剣を鞭に戻し、勢いをつけて続けざまに放つ。スパン、スパンと音がはじけ、一か八かみたいな顔で、ケイツは残像と走る空気とその切れる音を抜けて縮こまって飛んだ。鞭が跳ねる。彼は何度も小刻みに避ける。スタンはにやっと笑いながら、ゴムまりみたいなケイツめがけて鞭を振る。一つがものすごい勢いで前髪をかすめ、彼はあわてて身を引いて背中から地面に落下した。起きあがる間も入れず真上から突き刺すようにもう一方の鞭が来る。 「おわっ、やばっ」ケイツの頭が勢いよく回る。が、どうしようもないので、実際やけで、持っていたピコピコハンマーをタイミング良く鞭へ振った。白くスパークし、和太鼓が破裂したような音とともに、一瞬彼の目の前までぐにゃっと曲がった鞭が斜め遠くへ吹っ飛ぶ。 「ぬおう!」自分のしたことに仰天するケイツ。「すげえこれ、なんかすげえよ! スタンののびるやつが効かない! ぬおうおう!」 「ああ。……確かに驚いた、けど」  仰向けのままはしゃいでいたケイツの頭の方から、さっきよけた鞭が再び襲い、丁度腹部を斜めに切るように、平手打ちのような小気味いい音でたたきつけられた。 「い」その顔が一瞬、石膏像のように固まってから、苦痛で叫び出すように歪んで、「……だああ、あああ、ああいいいいい、おおうう……」声にならない声を絞り出してのたうち回った。「死ぬ……じーぬー、うう……おばあちゃん、見える……」 「ホントのパワーなら、今頃体まっぷたつだな」スタンはそれを呆れたように見ながら、肩をすくめた。「……一回一回はしゃぐなって、何回言ったらわかるんだろ」       *  ケイツがはっとして目を開くと、そこはもう見慣れてきた、オゴの昼寝屋の奥の小部屋の中だった。すでにスタンは覚醒していたらしく、なにやらテーブルに紙を置いてつらつら書き物をしている。  おずおずとそれを見ながら、機嫌を取るようにケイツが言い出した。 「あのー、なんていうか、いつものことだけど、進歩はあるでしょ? ほら今日なんか一気に服から道具から自分で『想像』できたしさ、確実に成長している気がするんですがいかがでしたか、がははは、……えへへへ?」 「えへ、じゃねぇよ」あっさり一蹴するスタン。「確かにお前の想像力は抜群だ。簡単に俺の『白昼夢』からアウトしないだけでも、相当メンタルにも根性がある。だけど、自分をコントロール出来てない。うまくいったら『うまくいった』って気持ちばっかになって、油断してばっか。つまり『理性』。理性が絶対的に足りないし鍛えられてもいない!」 「り、理性……それは、その……」  これまでスタンの『白昼夢』を使ってやってきた訓練を思い出す。うれしかったり、怖いことがあったりすると、一瞬我を忘れてしまうのだ。自分はスライムだというイメージをしてしまって溶けたりとか、本当に寝てしまったりとか、気が付いたら空を飛びながら大声で国歌(しかも他国)を熱唱していたりとか、あげるときりがない。 「でも、サルよりは理性あるよな? えへへ」 「破壊師としてはサルだ」またきっぱり切り捨てると、彼は書き終わったメモをケイツの目の前にぽん、と置いた。 「一日一回、このメニューを家でやっとけ。俺が昔やってたのよりちょっときつめにしておいたから」 「これは……、なに『CD15分 DVD15分 テキスト15分 外15分』って、なんか分数が明らかに適当で意味不明なメニュー」 「メンタルトレーニングのキットがある。お前に貸してやるから、説明書の通りにそれをやってみろ。1時間くらいなら朝晩に分けてできるんじゃない?」 「えぇー、1時間も? めんどく」  言いかけて、スタンがじろっと睨んでいるのに気づいたケイツは、 「――さくないのでがんばるよ! むしろがんばるさ!」引きつった笑いを浮かべた。  その時、ドアがノックされて、スタンが愛想なく返事した。すっとドアが開いて、 「やっぱりここに――あ」  栗色の髪をショートカットにした、制服を着た中学生くらいの少女がひょっと顔だけ出す。ケイツとその目があって、彼女は目を丸くした。 「あ」ケイツも目が点になって、その後今にも飛び上がりそうな顔で、「あ、ああああ、ナフサさん! ど、どどどうしてここに?」 「どうして、って言われても……」困ったようにはにかむ彼女。「もしかして、スタンの弟子って、……アルマイ君?」 「そ、そだけどなんで知ってるの? というか知り方が微妙なの?」 「あのさあ、リリ」不機嫌そうにスタンが声を上げて立ち上がった。「四階には来ないで二階で待ってろ、って、いつも言ってんですけど」 「それは、……ごめんなさい」彼女の声が沈む。 「『いつも』? お友達ですか?」二人を交互に見ながらぽかんとするケイツ。 「でも、この前貸した白昼夢遊病の本、すぐに図書館に返して来なきゃいけないから……。ばあやさんも出かけてるみたいでいないし、そっちも一区切りついたみたいだったし――」 「もういい、わかったよ! すぐ返すから、さっさと返しに行け」いらだちながらそう言うと、スタンは一人で部屋を出た。 「本当に、邪魔してごめん」 「だからもういいってそれは」言いながら、彼は階下へ消えていく。「あと、今日の練習は終わるから、ケイツもキット持ってすぐ帰れ」 「?」ケイツは状況がつかめずに、ただ突っ立っていた。「???」       *  夕焼けの濃くなった、赤い光の透き通る家並みの中を、ケイツとリリは並んで歩いていた。とりあえず彼は、図書館まで付いていきながら、彼女に話を聞こうと思ったのだ。住宅街から出て、学校の方へ続く少し広い通りをまっすぐ歩く。人通りは少なく、勘違いした街灯がちらほら光って続いている。図書館は歩いて五分の、二本お飾りの塔が付いた茶色くてへんてこりんな建物で、遠くからでもよく分かる。 「えっと、つまり、ナフサさんは、幼なじみってことね」ケイツが尋ねた。 「うん。幼稚園からずっと」彼女は頷く。「スタン、そういうことで冷やかされるの、すごく嫌いだから。アルマイ君も良かったらあんまり言わないで欲しいんだけど……」 「いや、それはもちろん。でも別に、幼なじみだからって隠すことなかろうに」 「昔は、スタンも気にしたりしなかったよ。でも、今は恥ずかしいみたい」 「気持ちは、まあ分からなくはないけど……。で、おれが弟子だったってことはナフサさんには隠してたわけね。三人同じクラスなのに、今日初めて分かったって、ねえ」  リリはくすっ、と笑って、「きっと、スタンのキャラじゃないことをしたから」 「……キャラ?」 「スタンらしくないことをしたって、自分で思ってるんじゃないかなあ。他人からどう見られてるかって、意外とすごく気にするの。そんなこと、別に気にしなくても良いのに」 「な、なんかあいつの本質を見抜いてそうな冷静かつ率直な分析……」ケイツは感心したように彼女を見た。「ナフサさんは、スタンのことよく分かってるんだね」 「え?」 「なんか、スタンの奥さんみたいじゃない?」 「え、ち、違うよ!」あわてて否定するリリ。「スタンとは、昔から知り合いなだけだもん。私の家、心療内科やってるでしょ、わたし色々観察する癖がついちゃって、あはは」 「そうだよねえ、それなら良かった、あはは」ケイツが何とか付き合い笑いをしてやったあと、二人はしばらく無言になって、妙な空気が流れた。  彼はむずむずして、何か言いたげな顔をして、ずっとこらえていたが、やがて覚悟を決めたように、おそるおそる、 「あっあの、……ナフサさん」 「なに?」 「ナフサさんは、その、大分前になるけどさ、おれの『手紙』のこと、覚えてる?」 「手紙? アルマイ君から、てがみ……」しばらくリリは考え込んで、申し訳なさそうに笑うと、「ごめん、何のことだっけ」 「……う、うーんと、あ、も」まごつくケイツ。「覚えてないならいいんだ。うん。覚えてたときしか通じない話題だから」 「なら、いいんだけど……?」  煮え切らない表情で図書館へはいる彼女を見送った後、ケイツは近くのバス停へ走りながら、「記憶にも残らない、ってことか……」と悔しそうに呟いた。 「くっそぉーっ」       * 『このDVDは、感覚的・精神的に若干刺激の強い映像と音をランダムで流します。三分に一回キーワードが表示されますので、どのような映像や音になってもキーワードを連想するようにしてください。なお、同じDVDはしばらくは使わないでください』  少し床の散らかった自分の部屋で、ベッドの縁に寄りかかってケイツはスタンにもらったトレーニングキットを試していた。ヘッドフォンをテレビにつないで、部屋を薄暗くしているので、静かな部屋はただ青白いちらつきで照らされたり照らされなかったりする。 (こんなんで本当に大丈夫なのかなあ……)  疑い半分のケイツの目に、「りんご」という文字が映る。その後で、突然何かの映画の戦争シーンになった。戦車が立て続けに大砲から火を噴き、兵士たちが伏せながら機関銃でぶちまけた。ところがヘッドフォンからは大量の猫のひしめくような大合唱が聞こえる。 (ななななんじゃこりゃ。り、りんご、りんご……)  その後不規則に、そして映像と音はバラバラに切り替わっていく。クラゲの海中遊泳、漫才の掛け合いの音、卵を延々と潰す映像、サンバのリズムとノリノリの歓声、インド映画、ライオンがシマウマを食べる映像、のび×がドラ○もんに泣きつく声のループ。 (これ、許可とってんだろうか……じゃなくてりんごりんご!)  一度もはっきりとリンゴをイメージできないうちに「さくら」という文字が映る。その後、これも映画だろうか、裸の男女の激しいラブシーンが童謡の歌声とともに始まった。 (わわっなんでこんなんが、っていうか胸がモロに! むね……じゃなくてさくらを……結構この人いいな……っじゃなくて、さくら!)  とにかくつむりそうでつむらない目で画面に見入っているところで、ヘッドフォン越しにドアの開く音がした。びくっとして振り向くと、いぶかしげな顔でケイツを見下ろす、長髪で少し年上の少女が立っている。半分パニックになってヘッドフォンを外すと、 「い、いやこれは能力開発トレーニングキットでいやその何にもいかがわしいものじゃ」 「エロい映画で何の能力開花させてるのよ」皮肉っぽく笑う少女。そしてしみじみと、「こうしてK2(家での呼び名)も大人の階段昇ってくのね、お姉ちゃんいいもの見たわ……」 「だから違うっつってんだろーが、これは白昼夢破壊師になるための――」 「おかーさーん」姉は心底楽しそうにドアの外へ呼びかけた。「K2がロマンティックにスケベになってきたよ!」 「だあからちがっ、意味わかんねーよ!」真っ赤になってじだんだを踏むケイツ。       * 「そして昨日は散々『赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?』について親に演説されました」ケイツが忌々しそうに言うと、スタンは笑いをこらえながら、 「そ、そりゃいいね。……いい人生の勉強になったんじゃねぇの?」 「うっさい。おまえのDVDのせいなんだかんな」ぎろりとスタンを睨んで、ケイツはその長い、空気でふくらませた青い剣をスタンへ向けた。「ぜったい、勝つ」  二人は畳風のマットがだだっ広く敷かれた、武道場の中で対峙していた。どちらも私服だが、ヘルメットに透明マスクをつけたものをかぶり、赤い長方形で区切られたコートの中で、少し間合いを取っている。 「あのDVDごときでまごついてるやつには、負けねえな」ふっ、と笑って、スタンは両手に持った短いエアー剣を構える。「かかってくれば?」 「いわれなくてもっ」  ケイツはぐっと足を踏み込むと、スタンの脳天めがけて真上から長剣を振り下ろす。それを剣で難なく受け止めると、すかさず彼はもう一方の剣を突き出し、ケイツはあわてて後ずさりしながらその脇腹へ回すように剣をたたき込んだ。それも防がれ、しびれを切らしたケイツはやみくもにあっちこっちからスタンへ乱れうつ。 「ふっ」  スタンは両剣をバッテンにしてそれを止め、足を引いてよけ、軽くはねた。そして一方の剣を盾にしながら思いきりケイツの首もとへねじ込む。それを押し返し剣を大きく左右に振って追い払うケイツ。が、すぐさま彼は低い姿勢で迫ってくる。剣を横倒して防ぐと肩めがけ振った。剣で止めたスタンは、反対の剣をケイツの足へスイング。ケイツの剣がそれをはじき、そのままスタンの顔面へ飛ぶ。防ぎきれずにスタンは素早く後ろへ転がる。 「よっしゃ、とどめ!」  自信をにじませながらケイツが、まさに起きあがるところのスタンへ躍りかかって長剣を力いっぱい振りかざす。スタンはにやっ、と笑うと、両脚をバネにケイツの胸元めがけて勢いよく飛び出した。彼が振り下ろす前にそのまま飛びつくようにぶつかって、両の短剣を一気に彼の腹へ突いた。それがめりこむ。 「!」しまった、と思いながら後ろへと棒のように倒れるケイツ。 「暗殺戦法」呟くスタン。「進歩してるみたいだけど、まだまだだ」  おおーっ、と武道場の端で帰る支度をしながら見ていた少年たちから声が上がる。 「はーい、そこまでー」壁により掛かりながら、オゴが気の抜けた声を出した。「ケイツ君も、うまくなったねえ。夏にスポチャンの大会あるんだけどさあ、出てみたらどう?」 「け、結構です……」倒れたまま意気消沈してケイツが言う。 「俺たちゃ『修行で』これやってるんだからね、オゴさん」スタンはくるくる肩を回している。「それに、オゴさんがコーチの代わりやってるうちは試合に出ても負けるだろ」 「正直に言うねえ……。どうせ僕は父ちゃんと違って防御しかできませんよ」ふてくされるオゴ。「じゃ早いところ帰りましょうか。――さっきクラリスさんから電話あったんだ」 「ばあやから」スタンの表情が変わった。「患者か?」 「うんや?」面白そうにオゴが告げた。「『連盟』の人が待ってるってさ」  それを聞いたスタンは、嫌そうな顔で「またかよ」とこぼした。       * 「五分だけストライキする学校の先生の組合みたいなもんさ。白昼夢破壊師にもあってね、破壊師の中のルールを決めたりとか、破壊師の待遇が良くなるように州や政府に働きかけたりとかしてるわけ。あと、デモとか、デモとか、総決起集会とか?」オゴが説明した。 「それが『連盟』ですか?」 「うん。破壊師のそういう組織は二つあって、『全国白昼夢破壊師連盟』と、『連邦白昼夢破壊師協会』ってやつね。知ってる人たちは『連盟』と『協会』って呼んでるよ」 「ははあ……」頷くケイツ。「でも、オゴさん何でそんなに詳しいんですか?」 「そりゃあ、作……じゃなくって、スタンのお家とは長い付き合いだしねえ。あと、僕の大学での専攻は『精神構造学』っていって、要するに白昼夢遊病のことをやっとるんよ」 「大学生だったのか。いつ大学行ってるんだろ……。まあそれはおいておいて」ケイツは釈然としない風にスタンを見た。「何でスタンがその『連盟』で腹を立てるんですか?」  外はもう夕焼けがかっている。三人は武道場から街並みを少し歩いて、事務所と古本屋(と昼寝屋)のある雑居ビルへ戻ってきた。スタンは少し前方を歩いていてほとんど喋らず、背中越しに不機嫌さがはっきり分かる。 「『協会』の人が来てもあんな感じだけどね」オゴは苦笑した。「スタンは二代目のスタナーでしょ。業界の有名人。『連盟』も『協会』も、スタンに加入してもらった方がイメージアップって言うか、こっちの方が偉いでしょ、ってことになると考えてる訳さ。多分、今日も勧誘しに来たんだろうけど、本人はどっちも気に入らないようだからね……」 「入りたくないんですか? スタンは」階段を上りながらケイツがきく。 「まあ、学校にも組合入ってない先生っているでしょ。別にいけない事じゃないわな」  スタンが事務所のドアをあけて、「ただいま」と投げやりなトーンで言う。 「おっ、待ってましたよ」事務所の中から男の声。「『スタナー』さん」  なぜか店に戻らないオゴに続いて、おずおずとケイツも事務所に入る。接客用のソファに、暗色の紳士服を着た背の高そうな三十歳前後の男がゆったりと腰掛けていた。 「おや?」男はオゴに気づいて、にやりと笑った。「珍しいねえ」 「はあ、どうも、ジソーさん」にこにこしてペコペコするオゴ。「お久しぶりです」 「いつもいつもごくろーさん」スタンは嫌々反対側のソファに座って、「じゃ、帰っていいよ。俺が聞くことも言うことも何もない」 「まあ、そう言わないでくださいな。一応わたくし、これでお給料もらってるんでね」短いあごひげを触りながら男は少しきざな声で言った。 「じゃ、ゆっくりしてっていいよ。ただしあれこれ喋らずに」 「つれないなあ」肩をすくめたジソーの視線が、ふとケイツに向けられた。焦るケイツ。 「あっど、どうもござんした」 「おーお。君か」立ち上がって、ジソーがケイツの前へやってくる。「噂はうちの連盟でも飛び交ってるよ。『若き才能・二代目スタナーに弟子がついた』って。君がそうだろう?」 「は、はいい」余計焦るケイツ。「ケイツ・アルマイ、です」 「全国白昼夢破壊師連盟本部、青年統括本部長のジソー・アトンシオンです。どーぞよろぴく」軽く礼をすると、握手を求めてきた。ケイツはおっかなびっくり握り返す。 「どうも、よろぴく……ぴく?」 「こう見えても結構凄いんだよお兄さん。仕事じゃこう呼ばれてる――」  手の力が強くなって、ケイツははっとジソーを見上げた。意味ありげにうっすら笑いながら、視線だけ突き刺すように自分の瞳に向いているのが分かる。何の変わりもないのに、恐ろしいくらいの目の力。顔をこわばらせたまま、ケイツは動けなくなる。ぼんやり意識がかすんできて、視界が白っぽくもやと化したところに、染み出るように、黒のスーツとサングラスをかけたジソーが現れて、 『【愉快犯《C.W.E.》】。車の種類じゃないからね』と口にした。  やっとの事で息を吸うと、パッと映像は消えて、意識も元通りになった。ケイツの額からこめかみの方へだらだら汗が垂れる。ジソーは手を離して目をぱっちり開くと、 「俺も破壊師として先輩だよんケイツ君。師匠のこと、将来の展望でお悩みなら相談してね〜」商売スマイルでケイツに名刺を差し出した。 「おい」スタンがぎろりとジソーを睨む。「余計なことをするなら、さっさと出てけ」 「はいはい、そうします。おねえさまっコーヒーごちそうさま」  奥の部屋から、はあい、と笑いうばあやの声。ジソーはドアの脇の服掛けスタンドからふち付き帽子を取って被ると、オゴとケイツに指をひらひらさせてドアを開けた。そしてドアノブに手をかけたまま、 「君のお父様には大変お世話になった。我々『連盟』は君に終生すばらしー待遇を保証しますよ? 君も、我々もお互いに幸せになれると思うがねえ。――たとえ君が、『お父様に遠く及ばなかったとしても』」  そして、けたけた笑いながら事務所を後にしていった。その姿を見届けた後、スタンは小さく舌打ちした。       * 「せっかくいらしたんだから、ショーゴ君もゆっくりしてらしてねえ」  ジソーのあとに座ったオゴとケイツの前に、ばあやがリンゴジュースが置く。スタンにも差し出して、最後にお菓子の山ほど入った皿をテーブルの真ん中に置くと、空になったお盆を抱えてまた奥の部屋へ戻っていった。 「いちおう、上でお店やってるんだけどね……客来ないしいっか」オゴがちびちびとジュースを飲み始める。  スタンは相変わらず機嫌が悪いままだ。黙ってチョコレートばかり皿から選んで食べていて、ジュースには手をつけない。雰囲気の悪さに居心地の悪くなったケイツは、 「あの、オゴさん」とにかく話し始めた。 「ほいほい」 「あのジソーさんって人、どんな人なんですか? 白昼夢破壊師みたいだけど……」 「どんな人って、人呼んで『愉快犯』っていう、スタンみたいなホーキィの破壊師だよ。スタンよりも徹底して人の精神の中で暴れるのを面白がってるっていう話だけど、腕は確かで評判は良いね。凄く計算してビル爆破するような感じ、って誰か言ってたかな」 「『連盟』の人って、みんなあんな、ちょっと性格悪そうな人なんですか? 」 「ああ、ってこともないだろうけど……。まあ一般的にはね、ホーキィの『連盟』にピジョニィの『協会』って言われてるよ。ケイツ君はピジョニィな破壊師が目標だっけ?」 「もぃろんdふぇす!」クッキーをほおばるケイツ。「ふぇ、平和が一番!」 「ピジョニィといえば、この界隈ではゴルドーさんかなあ。あ、ケイツ君は知らない?」 「えっと、……『職人《クラフツマン》』って雑誌で呼ばれてた人?」 「そうそう。破壊師、って仕事ができた頃からずっとやってる超ベテランね。たまにここにも来るのさ、あの人『協会』の人だから」 「そうなんですか!」目を輝かせるケイツ。「職人芸かあ。しょくにん、良い響き……」 「俺も職人なんだけど」愚痴るスタン。「悪かったな、芸がなくて」 「まあそうくさんないでさあ。破壊も芸術ですよ? 僕廃墟とか大好き」苦笑するオゴ。「ケイツ君ももし会ったらありがたい話でも聞いたらどう?」  と、事務所の扉をノックする音がして、スタンが怒鳴るように返事した。まず入ってきたのは、茶色いスーツを着た眼鏡の中年女性。上品に微笑んで会釈する彼女を見て、オゴが真っ青になってその場に立ち上がった。 「なっ」猛烈な勢いで何回も礼をする。「そ、っそっその節はお世話になっております!」 「あら、えーと、火曜日の授業の……オゴ、君だったっけ?」くすっと笑う。「あんまり出てこないから、覚えられなくて……」 「ごごごごもっともです、申し訳ありません! ったしか、4回くらい休んでいたかと」 「もう4回も……。何か理由があるの?」呆れたように笑う。「そんな難しい内容じゃないのに。これ以上休まれると、単位出せないわねえ」 「さぼって、違った父が重病で店を代わりにやってるんで、何とぞご容赦のほど……」 「あらまあ。じゃあレポートで多めに見ましょうか……。と、今日はその話じゃなくて」  そこで、彼女の背後から低い声。「クリプトさん、つかえてるんでな、早く進んでくれ」 「ああ、ごめんなさい」  彼女の背後から革のジャンパーを着た体格の良い白髪交じりの老人がのそっと現れた。ケイツは驚いて、スタンは嫌悪感をあらわにして声を出す。 「職人芸!」「やっぱりじじいか……」  老人は強面でスタンを見下ろすと、へっ、と笑った。 「よう、久しぶりだな、――小僧」 「まだ死んでなかったんだ?」スタンは挑発するように言って、彼を睨む。       *  ばあやが奥から顔を出して、女性や老人と挨拶を交わす。老人はその朗らかな表情のまましわがれた声で悠々と彼へ返してくる。「残念ながら憎まれ年寄りは世にはばかると決まっててな。わしに死んでほしけりゃ、にこやかに挨拶でもしてみろや、ん?」 「へーえ良いこと聞いた」目が笑ってない微笑みを浮かべて、スタンは、「こんにちは、おじいちゃん! おじいちゃん大好き!」 「ははっ、相変わらず幼稚な思考をしやがって」 「俺は子どもだからな」 「そう。時々、あるところじゃ大人と同じふりしながら、そう言い訳をするたぐいの子どもがいる。何人も見てきた。子どもだとも大人だとも主張できる、自分の都合の良い年頃を自覚して、利用できる子どもが……」うっすら笑いながら、老人はスタンの座っているソファの背もたれに手をかけて、嘲るように、「わしに言わせりゃ、クソガキだ」 「好きなように言えば」スタンは意に介さず、笑い返して、「クソジジイ」  沈黙が広がったその時、ばあやが後から来た二人へ座るよう勧めて、コーヒーと紅茶をそれぞれ出すと、一人用のソファに移動するスタンに「あまり良くない言葉を使わないように気をつけなさいね」と釘を刺して戻っていった。彼は虫が悪そうに黙り込む。 「ゴルドーさん、再開を喜びあうのはその辺にしてね」クリプトが紅茶を口にしてため息をつく。「わたし一人で来れば良かったかしら。あちらのボクもおっかながってるわ」 「ボク?」きょとんとした顔で、ゴルドー老人は向かいのソファで硬直しているケイツに気づいてぎろっと見つめた。「ん、坊主、もしかして、……小僧の『弟子』、ってやつ?」 「はっはいケイツ・アリマイです」マニュアル通りだが自分の名前を言えないケイツ。 「こいつ生意気に、弟子なんぞと、かっこつけやがって……。こんなまだちっこい子を」 「いやあの、スタンと同い年です」どうしてもそこだけは言及したかった。 「素直そうな坊主じゃないか。こんなガキとつるますのは実に可哀想だ」コーヒーを飲みながらしみじみと彼は言う。「どうだ、わしの弟子にならんか? うちはばあさんと結婚してからずっと二人暮らしでな……」言いながら、何かに浸っているようだ。 「は、はあ」なんかそれは微妙に弟子と違うんじゃないか、とケイツは思った。 「孫を見るのも、夢のまた夢でなあ、話し相手になってくれたら、ばあさんも喜ぶわ……」 「えー、っと」やっぱり違う、とケイツは思った。「おれはスタンでいいんです」 「いやあ素直!」ますます彼は感心して、「いきなりこんな爺さんに教わるの、やだよな」 「それでね、スタン君にたびたびお願いに来て申し訳ないんだけれど」クリプトはゴルドーを無視して切り出すことにしたようだ。「『協会』とうちの大学で合同でやってる、白昼夢破壊師と患者の脳波測定に参加して欲しいんです。これプリントね」スタンの前にワープロ印字されたB5の紙を差し出した。スタンが見ようとしないので、代わりにケイツがもらって読む。「これまでと同様、休日一日を使って一気にやってしまいます。それでね、やっぱり破壊師にもピンからキリまでいて……、正直イメージ力が弱い人も多くて、それじゃデータも曖昧で参考にならないの。『クリスタル』や白昼夢遊病の物理的な解明のためにも、協力してくれないかしら。あなたを見込んでのことですよ、スタン君」 「じーさんで十分でしょ」頭の後ろで手を組んでスタンはため息をつく。「別に、俺は先生が嫌いだとかで断ってるんじゃないんだ。――『協会』が絡んでるのが気にいらねぇ」 「……それは、破壊師全体で、いろいろな面からこの病気を理解しようと――」 「ならどうして『連盟』とも協力しない?」鋭い視線をぶつけるスタン。  困ったように口を結ぶクリプト。「それは」 「もっともらしくして、なあに当たり前なこと聞いてんだ」ゴルドーが割って入る。「うちと『連盟』は仲が悪い。クリプトさんはただうちの方を選んでるだけだ。……お前はただ、組織に祭り上げられて、『親父さん』と同じような目で見られるのが怖いんだろうが」 「うるさいな」うなるように言う。 「自分で感じてるがはっきりと見えない。そうやってなあなあでやってきた自分のプレッシャーが、はっきり目の前に形になって見えるのが、怖い」穏やかな表情で問いつめる。 「うるさいんだって!」スタンが怒りをあらわにして声を荒げる。呆れたように首を振ると、ゴルドーは立ち上がって、クリプトの肩をポンと叩いた。 「行きましょうや。ダメだ。頑固なガキほど説得の難しいものはないですぞ」 「……そうしましょう。もし気が向くことあったら連絡ちょうだい」諦めたように彼女も立ち上がるが、老人を見て、「でも、ゴルドーさんも火に油を注がないでくださいな」 「ははは、わしは子どもがいませんからな、扱いが難しいのなんのってね」おどけてそう言うと、「せいぜい縮こまっとけクソガキ。――クラリスさん、おいとまするからー!」  ばあやがあわてて出てきて、二言三言交わして会釈すると、彼らは事務所を出て行った。スタンは事務所の窓の下のアロエを触りながら、今にもものを投げつけそうなほど殺気立っている。そして、動揺していたケイツは、職人芸について聞きたかったのを思い出して立ち上がったが、もう意味がないことに気づいて、口をぱくぱくさせるばかりだった。 「ゴルドーじいさん……」オゴが沈んだ表情で呟いた。「もしかして僕に気づかなかった?」 後編  翌日、スタンとケイツが事務所の応接間で、駒のないチェスボードをはさんで何やらうなりこんでいると、ダフネがアポロと一緒に勢いよくドアを開けて入ってきた。 「ひぎょっ!」集中していたのでパニックになるケイツ。 「あら、ケイツちゃんもいたの」彼女の声のトーンはいつもより低く、おまけに目が笑っていない。彼は思わず震え上がって意味もなく謝りかけた。  それをよそに、彼女はじっとケイツの方へ向けて、数秒深刻な表情で見つめる。 「……」スタンが訝しがる。「なに」 「なんでもないわ」ダフネはため息をついて、「ケイツちゃんと遊んでる途中で悪いんだけど。――仕事よ」 「遊んでないよ。空チェスでこいつを鍛えてたんだ。それで、今日はどんなヤツ?」 「少しこっちの都合があってね。3年前から家の部屋に引きこもってる18歳の男の子、ってことしか説明できない」言いながら、おびえ気味のケイツの横に座って腕を組む。「初めてじゃないことだから、分かってくれるわね」 「そりゃね」スタンは頭をかきながら立ち上がると、「じゃ、先に部屋行ってるから、そいつ連れてきてくれる?」開きっぱなしになったドアを通り抜けようとした。ケイツもこういうスタンの行動パターンにはもう慣れたので、コーヒーを出しに来たばあやに「じゃオレも」と声をかけるとそれに付いていく。  と、背後から、 「待ちなさい」とダフネの鋭い声。 「のぎゃっ!」ケイツがたまらず飛び跳ねる。「はっはいなんでしょうか!」 「ケイツちゃんじゃなくて、あんたよ」振り返ったスタンへ彼女は続けた。「もう期末テストの勉強は始めてるんでしょうね」 「ほっといてよ」斜め下を向くスタン。 「それは良いけど。……いい、これは仕事なんだからね。人を救う仕事よ」その声色と表情は、いつもの説教と明らかに違って厳しかった。どこか怒気を含んでいて、感情的なものだ。「気ぃ抜いてやったら、ただじゃすまさないからね」 「……」スタンは顔を上げるとしばらく彼女と見つめ合って、「はーい」返事するとさっさと上の階へ向かっていった。       * 「なんかダフネさん変じゃない?」昼寝屋の奥の部屋で患者が来るのを壁に寄っかかって待ちながら、隣でつま先を見て黙っているスタンに聞いた。「昇進でもかかってんのかな?」 「俺を信用したいのはやまやまだけど、信用しきれねえ」 「え?」 「そう言う顔をしてた、あの人」彼が呟く。「何かあったな。そして多分、今度の『患者』とやらは――」  そこへ、アポロが『患者』を肩で担いでやって来た。担がれている青年は、若さ加減と無精ひげを生やしているところまではオゴと大して変わらなかったが、顔面蒼白で、うつろな目をしてへらへら笑っていた。白いジャージを上下に着て、やたらと体が細い。 「その患者は」彼を一瞥しながら、スタンが断言した。「『ふつうの』患者だろ? アポロさん。俺が治療が終わるまで見抜けないとでも思ってたの?」 「む」「え?」アポロとケイツが同時に声を出した。 「なんの犯罪も犯しちゃいないし関わってもいない。警察の職務範囲外の人間だ。少年犯罪だからって何も教えてくれなかったことは確かにあったけど、こんなやつを職務中によこすなんて、おばさんがすることじゃない。まるで俺を試すみたいだ」 「っ、この人は逮捕されて……」言葉とは裏腹に、図星だという顔をするアポロ。 「何があったんだ。――これはおばさんが、俺の仕事を疑ってるってことだろ?」 「そんな」ケイツが戸惑いの表情で、「どうして。ダフネさんはスタンを信用してるから、犯罪をした夢遊病の人をあっせんしてたんでしょ? なのに」 「……それは答えられない」口を固く結んで、アポロは青年をソファに導く。青年は一人で歩けるようで、薄笑いを浮かべながらふらふらと近づいて、倒れ込むようにぐしゃりと座った。「ただ、君がいつもどおりの仕事をして、この子が治療されたってことが証明できれば良いんだ。それだけ考えてほしい」 「話してくれなくたって」スタンの目がすっとアポロの両眼をとらえて、固定される。はっとしてとっさに視線をそらそうとするが、もう遅い。「答えくらい分かるさ」 「やめてくれ、スタン」その場に立ったままの彼の額から、だらだら汗が流れて落ちる。「これはロレル刑事からの指示なんだ」 「……」アポロの頭の中を見るようにぎらぎらしていたスタンの目が、急に宙を泳いだ。動揺したのが端から見ても分かる。そして、やっとアポロを解放してやると、深いため息をついて、弱々しく笑った。 「前に俺が治療した人殺しのおばさん、自殺したんだね」 「!!」ケイツは絶句する。「人殺しのおばさんって、あっ、あの、おれが初めてここに来たときの?」 「そうだ。――白昼夢遊病の発作が再発したみたいだな。よほど気が狂うような夢でも見たのかしらねえけど、警察病院の屋上から落っこちたらしい。慢性のこの病気が治って一週間かそこらでぶりかえすってのは、ありえない。だから、俺が手を抜いたって事しか考えられないってことさ」 「っで、でも、おれだって、ちゃんとクリスタルが元に戻ったところを見たよ。それに、あの人、スタンにお礼を――」 「それは僕も、ロレル刑事もよく分かってるよ」ひざまづきながらアポロは汗をぬぐった。「でも、事実として起こってしまった。もし君が原因なら、破壊師としてもっともあってはいけないことだ。君だけじゃない、僕やロレルさんも署で問題になってしまうよ。……だから、いつも通りにやって、この一件がただの悪い偶然だったって事を証明してくれ。頼む、このとおり」 「やめてよ、アポロさんが頭を下げる事じゃない」つかえているものを飲み込むようにぎゅっと目を閉じた後、スタンはカッと目を見開いて、気味悪くどこかを見て笑う青年を見下ろした。 「これは俺の問題だ」       *  硬い材質のまっ白な床が見えないところまで続いていて、高さのつかめない曖昧な白い空とかなり遠くでくっついていた。ひたすら広い所で、その空中にスクリーンもなくさまざまな映像が長方形に投影されて、森の木々のように埋め尽くしている。  メカニックの格好にピコピコハンマーを携えたケイツは、この夢の中にいるであろう青年自身の姿をきょろきょろ探しながら、わずかに殺気立っている黒ずくめのスタンを時々見た。全く迷いもなくある方向にずんずん行ってしまう。 「っね、ねえ」それに追いつきながら、話すきっかけを作る。「こっちにいるの?」 「写ってるものが違う」短くスタンが答える。「『都合の良い記憶』がこっちは多い」  ケイツは映像を改めて見上げて比べてみた。半透明になった、十数秒でループする光景の数々は、例えば大人にしかられているものであったり、追いかけられている途中で激しく転倒したもの、サッカーでパスを繰り出すところなど色々あったが、二人の進んでいる方向は、母親らしき人物に褒められていたり、テストで良い点を取ったり、誕生日パーティだったりと、良い気分でいられるようなものばかりに偏っていた。  時々、教育上よろしくない卑猥な映像も流れたりして、ケイツは思わず目を覆う。「すすすスタンさんエロイっす、見ちゃいらんないっすよ! きゃーなんだこれ£※◎§!」 「誰だって、見てるか妄想してるよこれくらい」歯牙にもかからない、といった風でスタンは素通りしていく。「おまえの頭の中にだって、なんだかんだ言ったってあるくせに」 「……」急に自分が恥ずかしくなるケイツ。「おっおまえなんか中学生じゃないやい!」  記憶の投影は終わることなく続いていて、真正面からぶつかってもなんの抵抗もなくすり抜けることができた。やがて彼もののとおぼしきゴミで溢れた部屋や、そのドアをノックされて布団に潜り込むような引きこもりらしい映像と、妖精みたいな羽の生えた白い肌の美少女がマシンガンをぶっ放して殺戮していく変な空想が増えてきて、ケイツは背筋にぞくっとしたものを感じた。  そして、少し薄暗くなった一帯が少しずつ見えてくる。その周りを沢山の映像が切り替わりながらくるくると動いており、中心で、キャスターの付いた肘置きのないチェアに座った青年が、背もたれに身を預けてぼんやりそれらを眺めていた。  彼は、すぐ側まで歩いてきたスタンとケイツに気付き、くるりとイスを回転させて二人を見た。「――おまえらが、こうしてここに来ることは分かってたよ」 「そりゃ話が早い」スタンは口の端を曲げて腰からのびるやつを引き抜くと、二つに割った。「中程度の症状でまだちゃんと意識があるんだ、当然か。なら分かってるはずだよな?――あんたがいかに腑抜けかって事がよ」 「ああわかってるさ。で?」自信ありげに青年は言った。「オレはこれで満足してんだ。さっさとかえれ」 「あんたが部屋に引きこもんのは勝手さ。けど夢に引きこもんのは病気だ。俺はいかれやがったあんたの脳みそを治すのが仕事。布団の中でなんかにびびる日々に戻るんだな」 「いーやーだーね」子どもっぽい口調で青年は突っぱねた。「オレがおかしかろうがなんだろうが、オレがこれでいいっつってんだよ。このまま外のことがわかんなくなればもっといい。現実のこと考えなくて良いし。死ぬよりずっと楽さ。ほっといてくれ」 「ふーん……なら」のびるやつのスイッチを押して棒状にすると、二本とも青年へ向けた。「ちょっと痛い思いをしてもらうしかねえな」 「やってみろよ」挑発するように笑う青年。「ガキのくせにえらそうに言いやがって」 「起きねえヤツの方が」青年のチェアめがけて、のびるやつの片方を鞭にして思い切り横に薙ぐと、勢いに乗って飛んで、真上からもう片方を振り下ろした。「よっぽどガキだ!」あたりが衝撃でびりびりがたがたと震える中、スタンはきれいにしゃがんで着地する。  が、 「い、いないよスタン!」ケイツはびっくりして言った。「消えてる!」  すでにそこに彼の姿はなく、水蒸気のようなものが立ちこめるだけだ。 「わかってる」表情を変えずに言って、ゆっくり彼は振り返る。「ケイツ、後ろだ」  ケイツもあわてて後ろを向くと、同じような舞台装置の中、同じイスに座って、青年がにやりとこっちを見ていた。 「はっ。すぐに手荒なことをする。やっぱりただの中坊だな」  スタンは返事の代わりに再び鞭を猛スピードで振り、悲鳴を上げて伏せたケイツの頭のあった場所を突き抜けて確実に一撃が届く。しかし触れるか触れないかで彼は消え、今度は空高くから笑い声が聞こえた。彼は舌打ちしながら、それを見る代わりに斜め上に鞭をしならせ飛ばす。青年の姿はやはり消滅し、真横の至近距離に現れた。 「どうしたんだよー。思考が停止しちゃってるぞ? ん?」  そこに剣を突き刺して、息つく間もなくスタンははね回るように四方八方に鞭を振り続けた。その先を読むように、鞭が激突する直前に青年の残像が浮かんでなくなる。もう殆どやみくもに鞭を床にたたきつけると、消えかけの青年の体をわずかにかすめて、再び彼はどこかへ行ってしまう。肩で息をしながら、スタンはあたりを睨み回した。 「もう終わりか? 俺ごときともまともにやれないなんて、まだまだ未熟だな、ふふ……」 「黙れ……」前方の空中に浮かぶ青年を無視し、荒い呼吸とともに、鋭い目線を巡らせた後、彼は轢かれたカエルみたいに伏せているメカニックもどきに声をかけた。「ケイツ」 「のえ」ぱっと顔を上げる。「や、やっと終わったか。……もうちょっと冷静にやってよ」 「別に焦ってないよ」ぴりぴりした調子で言って、「俺たち、どっちから来たか分かるか?」 「え?」言われるままに、きょろきょろ辺りを見回して、見たことのある投影を探す。そして「えーと、あ」  ケイツが指をさしかけた方向と真逆に、彼が発声し始めた瞬間にスタンは渾身の力で鞭を振った。猛烈な勢いと速さで、突風が吹いたような音を響かせ一気に映像の森の果てまで向かう。そしてバチバチとスパークがわずかに聞こえた後、青年のすがたがノイズとともに途切れた。 「っち……ってあれ? あの人は?」首だけその方を向き目を点にするケイツ。 「ホログラムだったとはね」スタンは鼻で笑って、鞭の柄をぐいっと手前へ引き寄せた。 「っほ、ほろぐらむ?」 「立体の映像さ。今まで叩いてたやつもみんなその辺の平面の記憶と似たようなもんだったってこと。のびるやつがかすっても傷一つ付かないのでピンと来た」  そして、鞭が伸ばされた方角、『都合の良い記憶』がずっと続く方から、青く光る鞭に縛り上げられた青年が、苦悶の表情で二人の元へ猛スピードで飛んできた。目の前にその体を叩きつけると、スタンはためらいもなくその胴を踏んだ。 「そう、本体は『都合の良い記憶』の道のもっと奥でに隠れてただけのこと」そして、夢に潜入する前にそうしたように、青年を冷たく見下ろした。 「――さあ、クリスタルの在処を今すぐ吐いてもらおうか」  一瞬恐怖のようなもので凍った青年の表情が、ぎこちなく歪んだ。 「嫌だ」  黙ってそこに視線を突き刺すスタンに、彼はへへっ、と小さく笑い声を漏らす。絶えられないくらいの沈黙が続いて、スタンがついにもう一方ののびるやつを振り上げた。  カチャッ、とからくりが動く音。  スタンの目の色が変わる。はっとして後ろへ体を向けたケイツの服を掴んで彼ごとさらう。  無数の炸裂音。  彼は青年を縛っている鞭を放り投げ、目前をかすめ、その影をえぐるように叩きつける弾丸をかわしてケイツをかばいながら床をスライディングした。すぐに立ち上がると、十メートル近く遠くに離れた青年と、その前に立つ、羽の生えた白い少女を睨む。  彼女がショルダーベルトで下げたマシンガンから、ゆらゆら煙があがっている。 「さっきの動画の……!」ケイツは息をのむ。「な、なんなんだよこいつ!?」 「ゲームか何かのキャラクタか――くっ」  再び発砲音。少女が無表情で体を震わせながら、その兵器を暴れさせる。再びスタンはケイツを掴んで、残ったのびるやつで地を叩くと一気に飛び上がった。 『私は全てを破壊するためにおくられた』少女が静かに呟く。『そうすることで秩序領域《ユニバース》は生まれる』 「キャラを思い通りに動かすのは楽しいだろう!」スタンが空中で言い放つ。「てめえの低レベルな妄想で汚れたキャラをな!」 「そうさ、俺は低レベルさ!」青年はからみついた鞭から抜け出すと、焦りと勝利宣言の混じった顔で言い返した。「だからここにいるんだ。だからここから引き戻されて、――たまるかああ!」  そして、二人に背を向けると、ものすごい勢いで走り出した。落下しながらスタンが彼へ向けてのびるやつを振るうが避けられ、すぐさま少女のマシンガンから銃撃がはじまる。彼はケイツを放り投げて、彼女の銃口が一瞬戸惑ったところですかさず吹き飛ばすように鞭を喰らわせた。  さかさまに落っこちるケイツと木っ端みじんになる少女を横目に、青年を真正面に見据えてスタンが叫ぶ。 「追え! ケイツ!」 「お、わわっ追えってあーた、――ぎゅびょっ!」そのまま着地して変な声を出すケイツ。頭と首を押さえながら半泣きで、「ったって、すっげえ早いのにどうすんのさ!」 「すっげえ早くはしりゃいーんだよ!」スタンは置き去りだった鞭を拾うと、じれったそうに「イメージするんだっ。早く付いてこい!」そして、映像の森の向こうに走り去る青年を追い、それごとなぎ倒すように空から左右の鞭を叩きつけながら飛んでいく。 「早く、早くって――」文句を言いかけて、ケイツはふと我に返った。 (冷静って言えば冷静だけど……、なんかやっぱり焦ってるよ、スタン)やっぱりアポロの話がこたえてるんだろうか、と思う。(せっかくここにいるんだから、おれだってしっかりしないと!)  そして、何はともあれ駆けだした。しかし二人との差はどんどん開いていくばかりで、走っても走っても無駄な感じがする。うなり声を上げながら全速力で駆け抜けても、意味もなく息が切れるばかりだ。顔を真っ赤にして、ケイツはたまらず立ち止まる。 (ん? 待てよ?)肩を上げ下げしながら顔を上げて、(別にリアルなイメージじゃなくてもいいじゃん)額の汗をぬぐって、きっと前を向いた。 「よし」       *  スタンのたたみかけるような光る鞭の爆撃をかいくぐりながら、必死の形相で青年は投影された動画を次々突き破っていく。 「いつまでもそうやって逃げてる気か?」奥行きのない白い空中でスタンが叫ぶ。「やりたきゃそうすればいいさ! 俺はどこまでも追いかける」 「俺は、まだ帰りたくない」自分に言い聞かせるように、疾走しながら青年は呟いた。「……帰らない、帰らない、帰らない、ずっとここにいるんだっ」 「逃げろ」スタンは笑いながら、もがくように先を行く青年の後ろ姿を、わざと外すように鞭を振る。「逃げろ!」もう一振りする。白い床が吹き上がるように飛んで大きな穴が空く。 「ひいいっ」思わず青年は耳ごと頭を抱える。それでも窒息したような顔で、目に涙をためながらひたすら走り続ける。車のような速さで彼は遠くへ、もっと遠くへ向かう。無数の映像へ認識できないくらいの間隔で飛び込んで抜け出す。  似たような柄の動画が遠くで塊のようにして待ち受けている。それはぐんぐんと近づいてきて、全てに制服が映っていることがわかってくる。制服がたくさんいる。どんどん近づいてくる。そして、  制服の集団。消音加工の穴が空いた部屋。壁いちめんの窓。  グランドピアノ。茶髪。ピアス。タバコ。射し込む光。  ころんとした体格の青年がそれを弾いていると、  彼らがドアから入ってきて顔がこわばり、  取り囲まれ鍵盤が乱暴に不協和音を叫び不良な男子達にちょっとすれた女子が混ざった奴らが笑って羽交い締めにして制服を引きちぎるようにはぎ取り笑ってそのまま下着を引きちぎって笑って肌に煙るタバコを押しつけて青年が泣き叫んで、そして、  彼らが去った後に、青年が残された。上靴以外真っ裸の体にスズランテープがフランス国旗のように縞模様に食い込んで彼を縛り上げていてしゃくりあげている彼の少しふくよかな腹に「ピアノデブ」と太くて赤い油性ペンで書かれていてその体が鍵盤を押しつぶすように置かれていた。 (やつらみんないなくなればいい、この学校みんななくなればいい、みんなみんなこの瞬間とまってきえてしまえばいい)  青年の真っ赤に腫れた目が、潤んで血走りながら狂気をはらんだ。 (でも、俺になんかそんなことできやしない)  青年はその映像の嵐をただただ首を振りながら、かたくなに目を閉じて通過した。 「いやだ、いやだ、いやだ、もうもどれない、もうもどれないいいい!」 「逃げろ逃げろ逃げろもっと逃げろ!」スタンは笑った顔で、悪魔のような眼を青年へ突き刺す。「そうだ、おまえに名誉挽回なんかできやしねえよ! 見てくれをどんなに直したって、おまえはその時のピアノデブのまんまさ。何度でも言ってやるぜ。ピアノデブ。この、ピアノデブがあっ!」 「そうさ! 俺は今だってピアノデブさああああ!」声がかすれるほど叫びながら、時々おびえたように振り返りながら、一心に走る。「だから逃げてるんだ。俺は逃げる。ずっとずっとずっと逃げる!」 「ああ、逃げるピアノデブ。逃げてることを認めて逃げるピアノデブ。それを認めてまた逃げるピアノデブ。そうやって逃げるがいいさ。壊れてピアノデブですらなくなるまで、どこまでも逃げやがれ! 俺が追いかけてやる」  床から跳ねた鞭の先が、青年の右肩に衝突してスパークする。割れるような悲鳴を上げながらそれでも青年は止まらない。その腕が、麻痺したのか力なくぶら下がって揺れる。スタンはまるで肉食獣のようにぎらついた目線で青年をとらえて放さない。 「追いかけて――『殺して』やる」そう呟き笑んだ彼の遙か後方から、 「ダメだあああああ」  ケイツの声と足音が急にボリュームアップする。スタンが振り返ると、ピコピコハンマーを手にした死にものぐるいの彼が歩幅と合わない猛スピードで迫ってきていた。 「止まって、止まるんだよ! 逃げちゃだめだよっ! そんなんじゃ何の解決にもならないんだ!」言いながら、彼の横を一気に追い抜いていく。「あああああああああ」 「……」それを見つめるスタン。「ピジョニィ、か」 「ほら! 逃げたからどうなるんだよ! 逃げたらまともになれんのかよ!」とうとうケイツは青年に追いついた。見向きもしない彼に声を張り上げる。「逃げてどこ行くんだ! 何にもなんないでしょ、それはわかってるんでしょ!? じゃあ止めればいいじゃん! 止めてみたらいいじゃん! どうしてできないんだよ! ほら……だから、止まって!」  すると、彼がすっとケイツの方を向いた。こわばった泣き笑い顔をして、震える声でこう言った。 「……優等生なことぬかしてんじゃねえよ。――ガキ」  それを聞いて、後方のスタンがふっと笑い、ケイツから表情が消えた。 「止まれって」一瞬彼はうつむいて、その手に持つピコピコハンマーを固く握りしめた。  そして一気に青年の前へ先回りすると、怒りを全身であらわにして、つっこんでくる彼へ向け振りかぶって、 「――止まりやがれこの引きこもりがああああああッ!」  瞬速でスイングした。ピコピコハンマーの可愛い音と残像を残して、首を変な方向に曲げた青年が消える。  そしてその姿をかき消すように、白色の閃光が全てを包んだ。 【「2nd.Cr!」後編まだつづく】 ------------------------------------------------------------------------ クリッ!(Cr!) 連載第一回〜第四回  著/Ogoys  公開所/N-A Online [ http://uzimune.net ]  公開責任者/N-A(小説同盟)  (※問い合わせ先は上記アドレスを参照ください)  この作品はフィクションです。  ◆作品に感想を下さい!◆  この作品へのご意見ご感想をお待ちしています。  前記連絡先へどうぞお気軽に。  また、ホームページには他にも作品がありますので、  そちらもよろしければご覧下さい。  (C)Ogoys All Right Reserved 2003-2004  著作者の許諾を得ずに、不特定多数への頒布、商用利用、  私的利用目的を超えた複製、加工、編集することを禁じます。 ------------------------------------------------------------------------