「カシミヤ8丁目カシミヤ8丁目カシミヤ8丁目」
と繰り返した。前の席に座った中年の女性が怪訝そうな顔で振り向いてきたので、少年はびっくりして車窓の方を向いて、景色を見ているふりをした。
自分でもかなり挙動不審なのは分かっているのだが、きちんとしなきゃいけない。間違った事があってはいけない、と、自分がこれからする行動について頭の中でイメージトレーニングをする。
人生の分岐点。ターニングポイント。夢への第一歩。いろいろな単語が少年の頭の中をかすめる。厳しい事があるだろうなあ、泣く事あるだろうなあ、と勝手に困難をでっち上げたりする。その上結論としては、ドラマチックに夢を実現して、
(りっぱな、白昼夢破壊師《デイドリーム・クラッシャー》になるんだ)
ちょっとなんとかの皮算用でニヤニヤしている少年を、通路を挟んで斜め前の席の老人が何故か幸せそうな微笑みで見つめていた。
【次は、カシミヤ8丁目、ナフサ心療内科前でございます。お降りの方はお知らせください。……痔、歯痛、虫さされに、パンナコッ】
「カシミヤ8丁目えっ!」
少年は思わず叫んで立ち上がり、思いっきり車窓のふちの「おろしてください」ボタンをたたいた。間抜けなチャイムが鳴って、ボタンが点灯する。驚いた乗客の何人かが一気に振り向いて、少年に視線の集中砲火を浴びせた。彼ははっ、というかぎくっ、として、それから恥ずかしそうにうつむいておとなしく座り込んだ。
バスが、少しずつ近づいてくるバス停に向けて減速していく。
*
5月の空は、春の様な淡さも夏の様な厚かましさもない、どちらかというと印象の薄いものだが、なかなか爽やかでもある。少しくたびれた様子の静かな住宅街の間にまっすぐしかれた広めの道路を、黄色いバスがのんびりと走ってくる。そして「カシミヤ8丁目」と書かれたバス停の標識の前で停車した。
ケイツは、バスを赤面気味に降りると、ショルダーバッグの中から折りたたまれた紙を取りだして、カサカサと開いた。プリンタで印刷された様な十数行の文章が並んでいる。彼は、視線をそれと周りの景色とにせわしく行き来させながら、バス通りの脇の狭い路地へ入っていった。
そこには、
『俺のいとこが半年前くらいに“スタナー”にみてもらったことがあるらしい。もちろん二代目ね。その話を聞こうとすると全然しゃべんないんだ。よっぽど嫌な目にあったんだろうな。ただ、なんでもユアミサワのカシミヤあたりに事務所があるってさ』
『カシミヤって、ほとんど住宅街じゃん。商店街のところ?』
『知らん。ビルの中だって言ってた』
『ビル? でかいの? 国道沿い? バス通り?』
『だから知らないって(^_^; 少なくとも住宅街のど真ん中じゃないわな』
という、会話の様なものと、
『4月15日(チ)☆STUNNER体験記☆ 私は一週間前に“スタナー”に治療されました。お陰様で立ち直る事ができ、こうやってレポートなんかをアップできるのですが、スタナーには大変感謝しています。
長々と書きましたが、本当になんというか、【活を入れてもらった】という感じがします。感謝してもしきれません。スタナーに敬意を表して、彼の望み通り事務所の場所はお話ししない事にします。でももし、白昼夢で困っていて“STANNER”と書かれた木の表札がかかったドアを見かけたら・・・・・・迷わず入ること!』
『2.26/Wedn. おとついに。ともだちにスタナーを紹介してもらった。びびった(いろんな意味で)。かなり。おまえに言われたくないよ。ってコトも言われたんだけど。。終わったあとはなんか。すごくすーっとした気分になった。それからいまのところ。まだ一回も意識がとぎれてない。すげーなー。STANNER。どうやら。本物だったみたい』
などと、日記の一部の様なものが書かれていた。
白昼夢遊病、と呼ばれる、近年になって急増している精神の病がある。これを、患者の精神に入り込む、という一風変わった手法で治療する「白昼夢破壊師」と呼ばれる人々がいるのだ。その中でも、「スタナー」という異名を持つ人物は、その鮮やかな治療の手際から、伝説的な存在の一人となっているのであった。2年前にその伝説となった先代が事故で亡くなり、今は二代目が引き継いでいるという話であったが、先代の死後は表舞台から「スタナー」の名はすっかり消えていた。
「――そう、あれに間違いないよなあ。古本屋の下の……ここを曲がって」
ケイツは一度、このバス停で降りて、白昼夢破壊師が主人公の漫画の、どこにも売っていない巻を探しに雑居ビルの小さな古本屋に来た事があった。道も覚えている。それに、その覚えている道を昨日寝る前に何度も何度も確認した。
「まっすぐ十字路を二つ無視する」
声に出しながら、やけに張り切ってぐんぐん薄暗い住宅街の奥へと進んでいく。すると、Tの字の交差点が見え、やけに交通量の多い、少し広めの道に出くわした。左右どっちに行っても国道に合流する、いわゆる「バイパス」だ。道に沿って、駐車場の広い新しめの商店が、古くて縦に長い豆腐みたいな形の古い商店たちに混じって建っている。
「右に曲がって、すこし行ったところ」
自分で言ったとおりに曲がったとたんに、緊張でドキドキしてきたのがケイツには分かった。わくわくしてきて変にひきつった笑顔になってくる。もう少しで、
(もう少しで、二代目『スタナー』に会える)
やがて、何の変哲もない四階建ての細長くて色あせた雑居ビルの前に、彼は立った。ビルの狭い入り口の脇に、電灯の入っている「ユーズドブック オゴ→3F」という小さな看板が置かれている。
一度深呼吸して、ケイツは勢いよく中に飛び込んだ。じめじめした狭いホールの右手に古本屋の事しか書かれていない各階の案内とエレベータ、正面には「空室」と張り紙のされた地味なすりガラス付きのドア、左手に急な階段がある。前来たときと同じように、階段をつかって上っていく。体が勝手に震えてきて、ケイツはもう一度深呼吸しようとしたが、かえってひどくなった。小学校の五年生の時に、演劇で準主役の宇宙人の役で本番にのぞんだ瞬間くらい緊張している気がした。
(いや、違うかもしれない。誰もいないか、偽物かもしれない。緊張しすぎだぞケイツ落ち着けケイツ負けるなケイツ)
だが、彼の心の半分以上は確信で埋まっていた。
(ただ、確かめるだけなんだ)
だが、彼の心の半分以上の確信の先は、
(会って、そして頭を下げて、頭を下げるのは五〇度くらいで)
いなかったり、偽物だったらどうするか、ということは欠落していた。
そして、彼は二階のホールへたどり着いた。そしてすぐさまホールの向こうへ続くドアを見る。
ちょうどドアのすりガラスのところに、横長の木製表札が、「STANNER」と書かれた小さな表札がかけられていた。
(やっぱり……!!)
この奥に、間違いなく「スタナー」がいる。ケイツの確信が決定事項になる。
緊張のしすぎでロボットみたいな動きをしながらドアの前に立つ。彼の頭の中に意味の分からないものがぐちゃぐちゃと写る。耳鳴りまでする。
覚悟を決めて、ケイツはドアをノックした。頭の中ではそれが、天高くジャンプした自分が巨大な剣をモンスターへ振り下ろす動作のようだった。
はい、と奥から女性の返事。
ケイツは頭の中が真っ白になって、そして、思いっきりドアを開けた。
「あのっすいません失礼しますぼくケイツって言うんですはじめまして実はここに二代目のスタナーさんがいるってききましてぜひお会いしたいと思ってご訪問申し上げ差し上げていただきました次第でございます! この通りです! 早速ではございまして大変恐縮ですがぼくスタナーさんみたいな白昼夢破壊師になりたいんです。心から一生のお願いなので何でもしますから弟子入りさせてくださいっ!!」
「あら」九〇度で敬礼するケイツの頭上のあたりで、年配の女性が声をかけた。「お友達?」が、ケイツの耳には全く入らず、大声で続けた。
「突然このような事をほざき申し上げて大変申し訳ございない失礼ですが、どうか弟子入りさせてください! よろしくお願いします!!」
「あ。――おい、ケイツか?」
どこかで聞いた様な声が下げたままの頭の先でしたのに気づいて、呼ばれたケイツはおそるおそる顔を上げた。
「ケイツじゃん。なんでここにいんだよ」
その先には、応接用らしきねずみ色のソファに腰掛けてこっちを驚いた様に見つめる、短い金髪の少年の顔があった。
つい一時間前、中学校のクラスの帰りの会まで見ていた顔だった。
*
「っはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」
金髪の少年は大笑いして、涙目になりながらソファーに倒れ込んだ。「弟子! 古典芸能かよ! ひっ、ひひひひひひいっ、笑いすぎて死ぬ!」ソファーの端をバンバン叩く。
「うるさいうるさい! しゃべんなよもう! 思い出したくない!」向かいのソファに座ったケイツは、顔を真っ赤にして少年をにらむ。「もう、三分前を忘れたい……」
中は狭く、ソファとテーブルの応接セットと、黒いパソコンの置かれたシステムデスクがある上に、さらにあちこちに観葉植物が置かれて、右の壁の窓からブラインド越しに差し込む黄色がかってきた西日を受けている。事務所自体はビルの幅の半分くらいで、奥行きももっとあるのを、ドアより左側からL字のかっこうで仕切って別の部屋にしているようだった。
奥のドアから、先ほどの返事をしたエプロン姿の老婦が、お盆にジュースとクッキーをのせてやってきた。
「お菓子でも召し上がって、落ち着いてくださいねえ」
「あ、ありがとうございます」
老婦はにこっと微笑んで、デスクの上に置いてあった小型のじょうろを手に取ると、鼻歌を歌いながら観葉植物に水をやり始めた。
オレンジジュースを一気に飲み干して、ケイツは大きくため息をついた。「絶対ここに、『スタナー』の跡を継いだ人がいると思ったのに」
「そう。それさあ」金髪の少年が言う。「なんで、ここに『スタナー』がいるって?」
「調べたんだよ、ネットで。先週、母さんに頼みに頼み込んで、やっとパソコン買ってもらってさ。何日もパソコンとにらめっこして、『スタナー』の情報を探してみたんだ」
言って、ケイツはショルダーバッグから例の紙を取りだし、少年に手渡した。少年は興味深そうにそれを眺めている。
「そこにあるのは大体、ネットの情報の中で一番多い意見っていうか、代表みたいなもののいくつかをコピーして貼り付けて印刷した奴なんだ。確かそうな情報の一つは、『スタナー』の事務所が、少なくともユアミサワ、この街にあるって事。もう一つは、『スタナー』のつづり」
「つづり?」
「うん。それの真ん中あたりの文章、日記だったかな、最初は“STUNNER”ってきちんとしたスタナーのつづりなのに、最後のは“STANNER”。間違ってるでしょ。次の奴も“STANNER”。スタナーで検索すると、かなりのページで同じく間違えたつづりがでてくるんだ。もしかしたら、これって意味があるんじゃないかと思って。で、昨日思い出したんだよ。こんなつづりの表札、ここで見たって」
「ほーう……」うなる少年。「『名探偵コ○ン』とか好きだろ、おまえ」
「毎週見てる!」思わず喜々として言ってから、ある事を思い出してケイツはふっと真顔に戻った。「ってそれはいいんだけどさ、何でおまえがここにいるの」
「何で、って」少年はそこでふっと笑うと、言葉を一度濁した。「だからさ」
「だから? 何?」腑に落ちない表情で再び聞くケイツ。
「だから――ねえ」金髪の少年は、口をへの字に曲げて厳しい表情で黙り込む。
「だから?」彼の言いたい事が分からず、身を乗り出してしつこく聞くケイツ。
「だから」もう一度言って、少年は大きく息を吐くと、何気なく、「俺がスタナー」
「え、誰?」
「俺」
「が?」
「スタナー、なんだよ」
「……へ?」ケイツは思わず、目を点にしてまぬけた声を出した。意味がよく分からない。「スタナー……?」
「そう」
「……誰が?」
「だぁかぁらぁ!」しびれを切らして少年もケイツの方へ身を乗り出して叫んだ。「俺が! スタナーなの! 飲み込み遅いよおまえは!」
老婦が二人の方を向いて、おやおや、と苦笑する。
「……え?」
ケイツの中で、ピーンと内容が一つにつながった。
「え、えええええええええええぇーっっ?!」夢中で立ち上がって、相変わらずへの字の少年へ驚愕の目を向けるケイツ。「おまえが? スタナー?! うそつけ! でも、スタナー?! 本当にスタナー?!」
「だから、くどいっつうの」呆れた様に少年も立ち上がって、言った。
「――俺が、スタン・ハイドレートが、二代目の『電撃者《スタナー》』なんだって」
*
先ほどの老婦が、唖然とした様子のケイツの方へ、ジュースの入ったペットボトルを持ってやってくると、
「おかわりでもお飲みになって、落ち着いてくださいねぇ」
「あ、え、お、おかわりなんて、いいです気にしないでください」
「まあまあ」
ケイツの遠慮を聞いていたのかいないのか、グレープジュースを空になっていたコップへ注いで、奥の部屋へ引っ込んでいった。ケイツはソファに腰を下ろしたスタンを一度見てから自分も座って、ジュースをまた一気に飲み干し、大げさに息を吐いた。
「ウソだと思ってんのか?」スタンが聞く。
「そりゃ、そうだよ。だって、そんな事今まで一度もおまえ言ってなかったじゃん。小学校の時におれ、こっちに転校してきたけど、全然おまえが、そんなようなようだったって、おまえからも、他のやつからも聞いたことないし」
「そうだな。俺は今まで、誰にも言った事はない」スタンはソファを離れると、システムデスクの後ろの壁、やたらに大きく見境なしに育ったアロエの鉢の真上で、小さい額縁に納められて飾られた写真を外して持ってきた。テーブル越しにケイツに見せる。
「……俺と、親父と、おふくろだ」
それをまじまじと見つめていたケイツの顔が、がらっと変わった。
「……スタナーだ……! これ、亡くなった最初のスタナーさん!」
「そうだ」
写真には、スタンらしきまだ幼い少年と、彼の両肩に手を置き背後で微笑む女性、さらにその横に、ケイツに指さされた優しそうな顔の男性が立っている。この事務所があるビルをバックにしていた。
「じゃあ、前のスタナーは、おまえのおじさんってことか」
「ああ」スタンがうなずく。「親父も自分の本名や、事務所の場所は伏せていたけれど、白昼夢遊病をもっと世に広めたいとか言って、テレビや雑誌にはよく出てた。こういう仕事があるんだ、ってことも伝えたいって。だから、おまえみたいな弟子入り志願の奴、結構事務所の場所をかぎつけて来てたよ」
「え、じゃあ、前のスタナーっていうか、おじさんには弟子がいたの?」
「いいや。あなたは破壊師には向かない、ってその都度断ってた。それで一人もいない。や、いたとしたら――」
「……おまえが弟子だった、ってことか」
「弟子扱いはしなかったけどな」スタンは話しながら、写真をもとの場所へ戻しに行った。「ただ、破壊師の素質みたいのが俺にはあった。親父のやってることをやってみたい、ってえのもあったし、あっちもいろいろ教えてくれた。でも、俺がスタナーの息子だって事は内緒にしろって言われてたんだ」
「なんで? いじめられるとか?」
「それもあるかもしれない。『そういう事が知られると、どうしても他の人は、おまえのことを特別な風に見てしまうんだよ』とかって言ってた」
そこではじめて、スタンはジュースに口を付けた。
「で、2年前に車にひかれて親父は死んじゃった。それで俺がスタナーって名前を継いだんだ。おふくろは、さっきの写真をとってそんなに経たないうちに……まあ、死んでたから、ここには俺と、ばあやだけになった」
「ばあや? あの人?」
「そう。お手伝いだ」
合点がいった表情でケイツが何度もうなずく。「そうだったんだあ」
「それで」何口かジュースを飲んで、スタンが真剣な表情でケイツの方を見た。「おまえがさ、もし、俺の友達だったら、……このことは内緒にしておいてくれ。これ以上俺の正体が広まったら、絶対いろんな奴からあれこれ言われて――その、嫌なんだよ、本当に、そういうの」
「うーん、そうしたいけど」ケイツはため息をついた。「ぶっちゃけ、口かたい方じゃないしなあ」
「お願いだ。この通りだから、誰にも言うな。この通り」
「わわっ、おいおい、そんなキャラじゃないだろ」テーブルに手をついて深々と頭を下げるスタンに、ケイツは焦った。「わかったよ。誰にも言わないよ。言わないから。でも条件付き」
スタンが顔を上げる。ケイツはにっこり笑って、言った。
「――おれを、スタンの弟子にしてください!」
「……はあ?!」驚き困惑するスタン。「お、おまえ、だって、俺なんかがスタナーだから、がっかりして諦めたんじゃなかったのかよ」
「だって故に、それでも先代スタナーさんの息子でおわしますじゃないですか! そして親愛なるお父様のお教えを受けてござったたった一人の存在でしょう! 現にスタナーをお継いで申し上げらっしゃいますし!」
「変な敬語使うな! 気色悪い!」
「おほん! とにかく弟子にしてよ! おれ、白昼夢破壊師になりたいんだよ。こんなに近くに師匠になってくれる人がいるなら、やっぱりいろいろ教わりたいよ」
「……」スタンは苦々しい顔をして、ケイツから目をそらす。「弟子は駄目だ」
「えーっ?! なんでさ?」
「俺は親父じゃないんだ。スタナーだけどスタナーじゃない。弟子なんか作ってられねぇよ。それに、さっきも言ったけど、素質のない奴はいくらやったって破壊師にはなれねぇ」
「……素質? ははっ、そんな事を気にしていたのかね○田一君!」
「何のキャラだよそれ」
「素質ならあるよ」胸を張って誇らしげにケイツが言った。「おれ、『クリスタル』見えるもん!」
「……」スタンがケイツを見つめる。「何だって?」
「知ってるよ、クリスタルが見える人じゃないと白昼夢破壊師になれない事くらい。雑誌で何度も読んだ」
「……」
スタンはケイツを見ながら、しばらく黙り込んだ。残っていたオレンジジュースを一気に飲んだ。そして、
「本当に、クリスタルが見えるのか?」確認する様に聞いた。
「だから、見えるんだってばよジョニー!」
「今度は何のキャラだよ。じゃあ、『クリッ』したことは?」
「くりっ?」ケイツは聞き返した。「なんの事? それ」
「相手の中に入り込んだ事があるか。潜入《エンタリング》のこと」
「それは……、それは」
急に表情を暗くするケイツ。「それも、できないと駄目なの?」
「ないんだな」頭をかきながら、スタンは座り直して、「ちょっと、こっち向け」
「向いてるよ」
「じゃなくて、俺に目を合わせろ」
「目を合わせる……?」同じように座り直して、言われたとおりにする。
「そう。そうして、俺の目の中のクリスタルを見てみろ」
「あ、う、うん……」
それくらい簡単にできるよ、と思いながら、ケイツはスタンの緑色の瞳に焦点をあわせてじっと見つめた。ケイツにとっては、ちょっとしたコツがいるだけだった。
彼はスタンの瞳から目を離さずに、ゆっくり深呼吸を繰り返した。鼻から息を吸って吐く。しばらくそうしていると、自分の頭の中に弱い睡魔が漂って少しずつもやがかかってくる様な感じがしてくる。妙に落ち着いてきた。スタンの瞳から自分の視線がずれていないようで、ずれてくる。
そうだ。この感じだ。ケイツは自分がいい状態なのを確信した。
周りの物音、遠くの車の音、それらが少しずつ聞こえなくなって、代わりに聞こえていた耳鳴りも通り過ぎる。
視界のふちがぼんやりして、ゆっくりと渦を巻きながら闇になって消えていく。闇はどんどん視界の中心へ、中心へと浸食していく。スタンの顔すらも曖昧になって、黒く溶け込んで見えなくなる。瞳。二つの瞳だけが、ぼんやりとした頭の中で、はっきりと浮かんでいる。
そして、その奥に、かすかに光るものがあった。それは明らかに小さいのに、すぐ目の前に巨大にあるみたいに映し出されていく。まぶしい光の中に、二つの同じ形をした透明な結晶が、透き通った塊が、そのくぼみ、溝、へこみ、屈折まではっきりとケイツへ姿をはっきりと現した。
(よし。見えた、クリスタル)ふっとケイツが微笑んだ、そのとき、カチッ、ともパリッ、ともつかない、何かをはじいた様な小さな音がして、
「――なかなかやるじゃんか!」
耳元で大きな声がびりびり聞こえた。はっとして意識をそこへ移すと、顔の間近ににやっと笑ったスタンの顔が、
「うわぁっ!」驚いて、思わず叫ぶと、ケイツは顔のあった方と反対側に飛び退いた。意識も視界も引き戻されて元に戻った。心臓がものすごい早さで激しく動いていて、汗が噴き出してくる。
「びっくりした?」いたずらっぽく笑って、先ほどと変わらない位置にスタンは座っていた。「俺が見えただろ。でも、ここから動いてないぞ」
「も、もしかして、おれの中に潜入したの?」
「そう。俺にもおまえのクリスタルが見えてたんだ。その中に自分が吸い込まれていく感じを強くイメージすると、そのうち『クリッ』って音がして、本当に入っていけるんだ。おまえの心の中にね。おまえにも音、分かっただろ?」
「う、うん」ケイツは落ち着くために何か飲みたかったが、コップは空だったので木の器に入ったチョコクッキーを二枚とってほおばった。それを飲み込んでから一度、深く息を吐く。「死ぬかと思った。……本当におまえ、スタナーだったんだな」
「って、あんなこと言ってて、やっぱり信じてなかったのかよ」口をとがらせるスタン。
「い、いや、そりゃ頭では信じてたけど、実感が」
「まあいいけど。――ばあや!」
呼ばれて、奥のドアからまた老婦が顔を出す。スタンが老婦に向かって、
「お茶でも水でもいいから、飲み物おかわり」
「はいはい」
「あとさ」
「はいはい?」
顔だけ出したままの老婦に、スタンが少し間をおいてから、言った。
「こいつ――ケイツって言うんだけど――、俺の弟子にするから」
「……え?」目を丸くするケイツ。
「これからしょっちゅう来るだろうから、顔覚えといて」
「弟子……」老婦も意外そうな様子で、「いいんですか? 随分簡単に決めてしまって」
「いいんだ」表情を変えずにあっさりスタンは言った。「じゃ、そうゆうことだから」
「……はいはい」クスッと微笑んで、老婦は奥の部屋へ引っ込んだ。
「ど、どうしていきなり?」ケイツはまだ状況が飲み込めず、目をぱちくりしていた。「おれに、本当に素質があったから?」
「それもあるけど」ため息混じりにそう言って、スタンもチョコクッキーへ手を伸ばした。「これで俺のこと、黙っててくれるんだろ?」
「う、うん」ケイツの顔がみるみる明るくなっていく。「もちろん!」目を輝かせていった。
「ただし、さっきの変な敬語とかはやめろ。今まで通り、普通だ。俺もそうするから。あと、俺はスタナーだけど、多分おまえの考えてるスタナーじゃない。弟子っていっても、おまえの考えてるような弟子扱いはしないからな。ただ、おまえに白昼夢破壊師のやることを教えるだけってこと。師匠とか弟子とかさ、そういうの別にして、いや、あっても、その前に、……ほら、その」
少し言いよどんでから、スタンは続けた。「友達なんだ、からな」
「うんうん、分かった」ケイツが強くうなずく。「それに、そっちの方がなんか、ずっといいじゃん。楽しそうで」
「ん、それならいいんだ。よし」
「あー、今おれスタナーの弟子になったんだなあ」こみ上げてくるうれしさを押さえられない風でケイツが言う。「スタナーの弟子かぁ!」
「他人に自慢とかすんなよ」
「このような取るに足らないものをご愛顧ながら弟子にしていただき、本当にありがたくありえないまこと幸せ太郎でした!」
「だからさ、その敬語を……」額に手を当てて、スタンは重苦しくため息をついた。「おまえ、約束守る気あんの?」
*
突然、入り口のドアをノックする音がした。あまり丁寧ではない。
「はいはあい」すぐに老婦が奥から出てくる。
「警察ですけど」女性の声だ。ピン、と張った事務的な口調。
スタンの表情が一瞬で厳しくなる。ケイツも緊張した雰囲気を感じてあわてた。
「え、もはや家宅捜索?!」
「ちげえよ」スタンはドアのほうを向いたまま言った。「客」
「客? おまわりさんが?」
「おまわりが客を連れてきたんだ。おまわりって言うか――」
老婦がはいはい、と声をかけながらドアを開いた。ベージュ色のロングコートを着た、三十歳くらいのショートカットの女と、その背後に背の高い若いスーツ姿の男が紺色のウインドブレーカを着た中年の女性を連れて次々に入ってきた。
「刑事だけどな」スタンが言った。
老婦に会釈した後、コートの女は鋭い視線で事務所を時間をかけて見回し、最後にスタンに目を留めると、フッ、と笑って、
「先週、中間テストがあったでしょう」とスタンに聞いた。
「は?」ぽかんとするケイツ。
「……そういう話から入ってくるのかよ」スタンは彼女から目をそらす。
「5教科の点数全部言ってみなさい!」
「へ?」ぽかんとしたままのケイツ。
「夏休みになったら、得点表見せるって」
「まあたそうやって悪い点数見せるのを延期して延期してずーっと先延ばしするんでしょう! 保護者は誰だと思ってるの。保護者に正直に点数見せてこそ庇護の身ってもんでしょ!」
「ほごしゃ?」ぽかんとしつづけるケイツ。
「何回勉強しなさい勉強しなさいってこっちが言えば気が済むの! 洗脳するまで言うけどいくら親から仕事継ぐんだからって高校には行きなさい。そして高校へ行くためには勉強しないと入れないの。はい、わかった?!」
「あのさあ、ダフネおばさん」一方的に話す女をにらみながら、スタンが言う。「友達の前でそういう話しないでくれない?」
「ん?」ダフネ、と呼ばれた女性はそこでやっとケイツのほうを見た。がらっと顔が明るくなる。「あら! 友達がいたの。それはそれは……お見苦しいところを見せちゃって悪かったわね。っていうかスタン、あんた友達ここに連れてきたことあったっけ?」
「お、おじゃま、してます」ケイツは圧倒されてそう言うのがやっとだった。
「わあ、なんかかわいいんだけど! 中学生だからかなあ。まだけがれの『け』の字くらいしか知らない感じ? かわいいー」急にダフネが目を輝かせはじめる。「名前なんて言うの?」
「あ、け、ケイツです。ケイツ・アルマイ」
「アルマイ。あのアルミみたいな綴りのやつ? あはっ、にあわなー」
「おばさん、仕事」「ロレル刑事、そろそろ患者を」
スタンと背後の若い男があきれ気味に声をかけると、ダフネははっとわれに返って、
「そう、職務中だった。今かわいい男の子にはしゃいだの内緒ね、アポロ君」
「は……はあ」若い男が汗をハンカチで拭う。
「いつものことだけど、よろしく頼むわ。この人なんだけれど」ダフネが言うと、若い男、アポロとやらが自分の連れてきた女性をスタンに見せた。ダフネより少し髪が長いが、大分乱れており、頬はこけ、顔はやつれ、表情がない。よどんだ瞳で虚ろにどこか遠くを見て、一言もしゃべらず、その両手首には手錠が鈍く光っていた。一人で立っていられないらしく、アポロが両肩をつかんで支えている。
ケイツはその女性と、彼女をけだるそうに見つめるスタンを交互に見ていた。
「この人、白昼夢遊病?」
「おおー、よく知ってるわねえ。おねえさん感心」ダフネはケイツが話すと機嫌がよくなる。「でも、これからはちょっと、部外者の人には見せられないの。上の古本屋でしばらく立ち読みでもしててくれる? スタンの少林寺気功で治療してもらうのよ」
「変なウソはいいから、おばさん」ため息交じりにスタンが言う。「こいつ、俺の弟子」
「はあ? 弟子?」目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。「弟子? 何あんた突然生意気なこと言ってんの? 本当?!」
「あ、その、はい、弟子、です……」怒鳴られやしないかとびくびくしながらケイツが言う。
「ええーっ……弟子って、弟子って……、あれ、わたし今日頭痛薬と間違って覚醒剤でも飲んだかな」
「とにかく、こいつにも見てもらうから。それでいいだろ」
「……あのさ、あんたさあ……」ダフネは深くため息をついてから、スタンをにらんで厳しい口調で、「生半可な気持ちだったら、許さないわよ。分かっててそんなこと言ってる?」
「当たり前だ」スタンもすぐ真剣ににらみ返す。「俺が逃げたことなんか、一度だってないだろ」
「勉強以外はね」皮肉っぽく笑んでダフネが付け加える。
「うるさい。集中力きれるから余計な事言うな」スタンが顔をしかめて、両手で耳をふさぎながら事務所を出て行く。「アポロさん、その人上まで連れてきて。ケイツもついてこい」
「あ、うん」ダフネと老婦に会釈して、そそくさとケイツはスタンの後を追った。アポロと女性もその後に続き、事務所のドアが閉められた。空いたソファに落下するように勢いよく座ると、ダフネはひときわ大きなため息をついた。同時に老婦が、いつのまにかいれていたらしいコーヒーを持ってきて、テーブルに置いた。
「ありがと」そのコーヒーをすすりながら、「……しかし、何でまた突然弟子なんて作ろうとするかな。なんかあったの? クラリスさん」
「あのお友達に、破壊師の素質があるとおっしゃってましたよ」老婦が反対側に腰掛けて、置き去りになったチョコクッキーを一枚かじった。
「素質って……。そんなすぐさま弟子にするほど喜ぶものでもあるまいに。ケイツちゃんって、『ちゃん』ってさすがに失礼かな」
「さあ」苦笑する老婦。「まあ、いいんじゃないですか?」
「いつからスタンの弟子なの、ケイツちゃん」
「えーと」老婦は壁の掛け時計をチラッと見て、言った。「5分くらい前からですよ」
*
「名前はマニラ・クレイツ。四十二歳で、三年前に家の火事で旦那さんと一人息子を亡くしているんだ。それがきっかけでお隣の一家を逆恨みするようになって、麻薬に走った上、お隣一家の主人を殺して、それを目撃した女性を主人の愛人に見せかけて殺し、さらに娘さんを誘拐、監禁したという容疑で逮捕されたんだけど、途端にこの有様で……ふんっ!」
顔を真っ赤にしながら、人形のように脱力したままの女性を抱えて階段を上るアポロを、もう三階にのぼりきっていたスタンとケイツが眺めていた。
「ほ、ほんものの、殺人犯なんだ……」
「わくわく、とか思ってんのか?」
「思ってない思ってない!」ケイツは図星だったのでむきになって首を振った。
「み、見てるんなら手伝ってくれよ……」
「あ、は、はい!」「俺、オゴさんに許可もらってくるから」
ケイツはあわててアポロのほうへ駆け下り、スタンは古本屋の中へ入っていった。「いらっしゃいませぇ」と男の声で気の抜けた挨拶が聞こえる。
「あれ、どうして古本屋へ行くんだろ」
「ああ、治療のときにはいつも四階の部屋を使わせてもらうんだよ。古本屋のオゴさんが四階のお店もやってるから」
「え、四階にお店なんかあったんですか?」
「知らなかったかい? あそこは――って、せっかく手伝いに来てくれたんなら、こっち、持ってほしいなあ……」
「あ、はい、すみません!」いちいちあせりながら、ケイツは女性の脚のほうを持たせてもらって、二人で担架のように運んでいった。ようやく四階への階段にさしかかったところで、スタンと、20歳くらいの楕円形のメガネをかけて不精ひげを生やした若い男が古本屋から出てきた。
「あれ、オゴさんは?」アポロが、青年をいぶかしげに見ながら聞いた。ケイツが以前見た古本屋の主は、小太りの中年の男だったはずだった。
「入院してんだよ。なんだっけ、コウテ、後転?」
「後天性表裏逆転虫垂下部逆上症候群」青年が忌々しそうに答えた。「モンゴルじゃないと手術ができないっていうんで、行っちまったから、三日前から店をまかされたのさ。ちなみに父ちゃんはジンジャだけど僕はショーゴです、ショーゴ・オゴ。当分よろしく」
どんな症状の病気なのかケイツには想像もつかなかった。
やがて、五人は四階にたどり着いた。中へ入るドアの上に「時と精神の部屋」というどこかで見たことのあるような名称の看板が取り付けられていて、大分色あせている。
「今日はお客さんまだ来てないんで、カギ閉めてたんだよね。ちょっと待ってて」ポケットからカギを取り出し、オゴがドアノブのカギ穴に差し込む。
「ここ、何のお店なの?」ケイツが聞いた。
「昼寝屋」スタンがそれだけ言った。
「そ、そうなの……」
「1時間50円なんだ。良心的だよね」アポロが少しだけ説明した。「内税だし」
「そ、そうなんですか……」
こんな住宅街に昼寝屋があって、誰がくるんだろう、とケイツは思った。
オゴがドアを開けて、中に4人を招き入れる。「じゃあ、僕下にいるから、終わったら言ってください」
中は薄暗く、広い空間の真ん中が通路になっていて、左右にびっしりと大き目のテントがキャンプ場のようにひしめいていた。床は音が立たないように緑色をした厚めのカーペットがしかれている。一番奥の突き当たりに、「私用」という小さなプレートが横に張られたドアがあり、そこにスタンは真っ直ぐ入っていった。ケイツ、女性を抱えたアポロの順でそれに続く。
ドアは開けるときも閉めるときもほとんど軋まず、下のほうに目を移すとゴムパッキンで音漏れを防いでいた。子供部屋くらいの大きさで、奥にパイプベッドが、手前にスタンの事務所のようなソファとテーブルの応接セットが一組。それ以外は天井に電灯があるだけだ。
ケイツはあたりを見回しながら感心するばかりだった。全員が入ったのを確認すると、スタンはアポロに女性を座らせるよう言って、ドアを閉めて電気をつけた。ぱっと、真っ白な壁に囲まれて、緊張した空気の静かな空間が出来上がる。
「じゃ、やるか」スタンも女性の反対側に座って、思い出したようにケイツのほうを見た。「おまえもこいよ」
「え、おれ? 見るだけじゃないの?」
「練習だよ、練習。別に怖いことなんかねぇ。さっき俺が話したように、集中してイメージできれば、簡単に入れる」
「でも、治療なんか、まだ……。邪魔になるかも」
「入るだけだって。その後は俺のやってることを見てりゃいいんだ。知ってるかもしれないけど、潜入した後なんかあったって、元通り目がさめるだけなんだから。白昼夢破壊師になりたいヤツは、まず、そういうのを体で覚えなきゃだめだろ」
「そ、そうか……」しばらく黙った後、覚悟を決めたように、「そうだね、やってみるよ!」口を真一文字にひきしめて、ケイツはうなづいた。
スタンがにやっと笑う。「よし、決まりだ」
「仕事なんだからね。頼んだよ、スタン」アポロは少々不安げな顔つきで部屋の隅で壁にもたれて腕を組んでいた。「ケイツ君も無理するなよ」
「へいへい」「あ、う、はい、がんばります」
ケイツは緊張でどきどきしながらスタンの隣に腰掛けた。正面に、こっちを見ているようで見ていない気味の悪い女性の姿がある。
「反応がないっていうのはさ、かなり重症なんだよね?」
「黙って集中」ケイツがスタンのほうを見ると、スタンは一段と鋭い視線を女性へ向け、まったく瞳を動かしていなかった。さっきまでとはまた違う、凍りついたような、殺気をはらんだような表情をしていて、ケイツは思わず身震いした。
(こいつの、こんな顔見たこと、ないな。……おれも集中集中)
ケイツは一度、緊張でまた震えてきた息を吸って吐いて、女性の濁った瞳をしっかり見つめた。
(はじめてリアルで見たよ。……本物の白昼夢遊病)
少しずつ、彼女の周りの風景が見えなくなり、自分の周りの感覚が消えていく。
(一体、どんな夢を見ているんだろう)
少しだけ、視野が狭くなり、じりじりかすかに響く、電灯の音が遠くなり、もやもやとしたものが頭の中にたまってきて、
(人を殺した人が、閉じこもった夢)
一瞬でぷつんと、糸が切れたようにケイツの意識が引き戻された。
(あっ! だめだだめだ集中しなきゃ!)
もう一度、彼女の瞳に意識を集中する。心臓の鼓動が大きくなって、それでも聞こえないふりをする。息を激しくしようとする衝動に気づいていないふりをする。
(真っ白に真っ白に真っ白に真っ白に)
やがて、水面に墨汁で輪を描くように、加速度をつけて彼の視界が闇に閉ざされて、
(瞳を瞳を瞳を瞳を)
ノってきた実感がしてくる。やがて、ケイツの茶色い瞳に、彼女の灰色の瞳だけが映る。かすんでいる。しかしその奥に、わずかなきらめきが見える。
(クリスタルクリスタルクリスタルクリスタル)
そのきらめきは徐々に大きくなっていく。何か一つの輪郭をなして、いびつな一つの輪郭をなして、さらに背後の逆光を浴びながら、弱く、だが力強く輝き始める。
(クリスタルクリスタルクリスタルクリスタル)
クリスタルだ。二つ見える。それぞれの半分以上に、黒いしみのようなものがへばりついている。
クリスタルだ。
(吸い込め吸い込め吸い込め吸い込め吸い込め)
おれを吸い込め。
二つのクリスタルが、中心に近づいて、すれ違って、一つに重なった。その瞬間、ケイツは自分が本当に体丸ごとクリスタルに吸い込まれる感覚に襲われた。
(この感覚……?)
今いるところからちぎりとられて、掃除機のように一気に瞬きするまもなく突き抜けていく感じ。ケイツは不思議と、ちっとも怖くならなかった。クリスタルは加速度をつけて大きくなって、そして、まぶしくて何も見えなくなって、
クリッ、という小さな音がした。
何かが頭の奥で、いや、それを超えたもっと離れた場所ではじまって、波のようにゆらゆらと広がっている。ケイツはゆっくり目を開き、それを見ていて、聞いていて、ただぼんやりと漂っていた。ふわふわとしていた。だが、自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、あんなによく知っていたはずなのに、それを思い出さなければいけないことにすら気づいていなかった。
炎が見える。
ろうそくのそれのような優しいゆらめき。
そのゆらめきが少しずつ形を変えていき、何でもなくなる。そのうち、それは豆粒の様に小さく、点の様に小さく縮んで、ケイツの眼下にびっしりと敷き詰められていった。
(おれは、)
その周りの闇が、青を少しずつ流し込まれた様にかすかな明るさを帯びる。それが眼下のびっしりとしたオレンジの光の波紋とシンクロして、不思議な夜闇の空気を作り出す。そして光の点と点の空隙がかき混ざるように変化していき、
(ここは、)
街だ。
眼下に果てしなく街が、明かりをともした家々と街路灯が広がっている。
(おれは、ここで、とんで、)
彼ははっとした。
強烈な落下の感覚。激しい空気の抵抗。一気に近づく街並み。藍色の空を飛んでいく星たち。
「う」
ケイツの中をただひたすら恐怖が覆い尽くした。夜空を落ちている。落ちて落ちて落ちてずっと落ちて
「――うわああああああああああぁぁぁぁっっ!!」
なすすべもなく突き抜けるように拡大していく街並み。真っ白な頭の中。家一軒が視界を埋め尽くした。
(ぶつかる!!)
その時、ケイツは脇腹あたりに大きな衝撃を感じた。変な声が出る。ぶれて、見るものがひっくり返って空になる。見えている星が横に残像をゆっくり引いていく。
「ぶつかってたらきっと、放出《アウト》してたな」頭の後ろで声がした。彼のよく知っているはずだった声だ。
「ここは……どこ?」その声に聞いてみる。ケイツ自身でも頼りない声だと思った。
「まだ自覚できてねぇんだな」意味の分からないことを声は答えた。「夢ん中」
「夢?」そうだ、そういうものだったかもしれない。「よく分からないんだけど?」
「いいか」声はケイツの問いを無視して、「俺の言ったことを繰り返せ。俺が初めて他人の夢に潜入したとき、親父が俺にもそうさせたんだ」
「繰り返す……」
背後の声の主に助けられたケイツの体は、住宅街の細い道に沿ってゆっくり高度を落としていく。
「ここは、夢の中だ」声は言った。
「ここは、夢の中だ」ケイツは繰り返した。
「俺は、夢の中にいる」
「おれは、夢の中にいる」
「俺は、夢の中で、……自由だ」
「おれは、夢の中で」
ケイツはそこまで言って、はっと我に返った。
手探りしようと思ってもできなかったところがすべて生き返る。
頭の中ですべての回路に一気に電流が通り始めた感覚。
「自由だ」
彼は一度目を閉じて、もう一度はっきり開いた。
「分かったよ、スタン! ここは夢の中だ! おれは白昼夢遊病を治療するおまえの弟子になってついてきたんだ! なあ!」
ケイツは言って、自分の服をつかんでいるはずのスタンの方へ振り向いた。そして、一瞬目を疑った。
確かにそこにはスタンがいた。が、夢に入る前まで見ていた服装ではなかったのだ。上着もパンツも真っ黒で、革の様な光沢があり、それだけでできている、と思わせるくらい、腕の部分から足の裾まで太いベルトとその金具がびっしりとついていた。
以前ケイツがテレビで見て目に焼き付けた、先代スタナーの服と色違いだった。
「ああ、そうだ。あってる」スタンは彼へ向けて、不敵ににやっと笑んだ。「――よく来たな、ケイツ」
「うん」ケイツも彼に笑みかえす。
「やっと会えた。『スタナー』に」
【クリッ! 1st.Cr!【後編】へ続く……】
